困る人でなければ
その冒頭に次のように書かれています。
「人間は、困らなければならない。
困る人でなければならない。
誤解しないでもらいたい。
困る人といっても、決して人を困らせる人ではない。
自分に正直で、自分に嘘が言えなくて、わからないものはわからない、困った事は困ったこととして、困る人でなければならない。
小器用に自分を誤魔化せる人は、その場その場を要領よく切り抜けていくことができても、所詮それだけで、人間に成長はない。
言葉をかえていえば、困るということは、人間が生きている証拠なんだなあ。
成長というものは、生きている間にしか行われない。
死骸に生長はない。
困る、悩む、つき当ると、人間はかならずそれに対応しようとする。
前進ばかりではないんだよ。
一旦、ひっこむことも、あるいはあり得るのだ。
ひっこむからこそ、前へ出ようという運動が起るのであって、人間の成長は、この運動に頼るのが、いちばんいいのだなあ。」
というのであります。
困るというのは、自分に正直であることだというのです。
自分に嘘をつけないことです。
自分を誤魔化せないことです。
これは大事なことであります。
更に朝比奈老師は、
「それには、なによりもまず、自分に誠実であることだ。
仏教の名だたる高僧がたが、みなそうだ。
親鸞さんにしても法然さんにしても、そうだ。
日蓮さんも、そうだった。
みんな誠実に悩み、苦しみ、苦しみをつき抜けて、それぞれの世界をうちたてられた。
みんな適当に、自分の宗教的悩みを処理できる人だったら、こんにちの浄土門や法華門はなかっただろう。」
と説かれています。
まさしくその通りであります。
親鸞聖人のような方は、正直に困って困って、困り抜いて念仏の信心を説かれました。
名だたる一宗の祖ばかりでなく、この朝比奈老師にしても同じであります。
正気に困り抜いて、大成されたのであります。
この本のまえがきに「『覚悟はよいか』復刊にあたって」と題して書いた中に、本書の魅力について書いています。
本書から引用しますと、
「本書の魅力はいくつも挙げることができるが、まず第一は幼少の頃に死について大きな疑問をもって十歳で出家して、白隠禅師をお手本に純粋に坐禅の修行に励まれて、この問題を解決されたところにある。
朝比奈老師がお若い頃にどのような修行をなさっていたのか細かに書かれているので、今修行をする者にとっては大いに参考になり、励まされる。
そして、坐禅修行に打ち込まれた結果、死んでも死なない「仏心」の世界を体得されたのであった。」
と書いておきました。
まず、朝比奈老師は、四才で母を亡くし、七才で父を亡くして、死んだ父母がどこにいったのかと、正直に困ったのでした。
たいがいの人は、ある程度時間がたてば、そのような問題に深く向き合おうとしません。
言葉は悪いかもしれませんが、自分で自分をごまかしてしまいます。
そうしないと、生きてゆきずらいのであります。
しかし、まだ少年だった朝比奈老師は、自分をごまかすことができなかったので、正直に困って、困り抜いて坐禅されたのでした。
困ったからこそ、その死の問題に解決を得られたのでした。
それか次に
「第二の魅力は、「信心」の世界について語られているところである。
朝比奈老師は三十歳で鎌倉の浄智寺に住されたが、親戚の方の一言で大きな疑問を持たれた。
もう年をとって禅の修行もできない者には救いはないのかという問いであった。
そこで朝比奈老師は、浄土門の村田静照和上を訪ねられた。
この村田和上という方は、浄土真宗でも傑出した方であった。
禅僧との交流も持たれていた。
朝比奈老師は、村田和上との出会いを通して「信心」の世界に目覚められたのだ。
後に朝比奈老師は「仏心の信心」という独自の禅風を挙揚されるようになったのだ。」
と書いています。
死の問題について、坐禅をして解決を得られた朝比奈老師でありました。
臨済宗の修行も一通り終えられて、老師として鎌倉の浄智寺の住職になられていました。
三十一才の時、朝比奈老師が田舎に帰って法事の席で、死の問題について自分なりに解決を得たことを語られたのでした。
それを聞いていた八十才の老人が、朝比奈老師に言われたのでした。
「あんたはいい、という。あんたは死んでも死なない仏道の真理に目ざめるには、禅さえすればわかるという方法を知り、実際に参禅し、禅によって仏道の真実を得た。
ところが自分には、もうその道をきわめる気力もない」
と言ったのでした。
これには朝比奈老師も困ったのでした。
本書で朝比奈老師は、
「以来、儂はその老人の言葉を背負って歩くことになる。
坐禅もできないものは、どうなるのか。
仏の悟りから見放されているのかー
儂は苦しんだな。
その苦しみは、あるいは死んでも死なないという課題を抱いて坐禅三昧に入っているよりひどかったようだ。
なぜだ、なぜだ、と自分に問うてな。」
と書かれているように、これまた正直に困り抜いたのでした。
しかしながら、そのように正直に困っていると、良き人との出合いに恵まれたりするものです。
朝比奈老師もまた
「そんなとき村田静照という偉い人に会ったのだ。
真宗高田派の人だ。
それまで儂は日本大学に学んで、禅以外の人とも接触する機会をもち、それぞれに立派な仏教者がおられることを知っていたから、抵抗なく念仏の人の門を叩くことができたのだと思う」と書かれています。
「ともかくこの人に会って、儂は、道をきわめた人にとっては、禅も念仏もへだてのないことを知った。
修行の仏教ではなく、信心の仏教から入った人なのに、一家を成している禅者でもかなわぬ境地なのだ。儂は、目のさめたような気がした。
なんと「信心」というものの強さだ。
正直いって修行一途に来た儂には、この信心の世界というものを軽んずる傾向があった。それが、どうだ。
この和上に限っていえば、なまなかな修行より、はるかに強靭なものをもっている。
儂がのちに「仏心の信心」を提唱するようになったのは、まったくこの人の影響といってよい。
この人によって信心というものの凄さを知り、それによって儂自身が修行して得たものが何であるかを知ったのだ。」
というのであります。
本書に書かれている村田和上との問答の数々などは、実に生き生きとした躍動を感じることができます。
実際に修行して「仏心」を悟ることができなくても、そのまま「信心」すればよいと親切丁寧に語ってくれているので、読むだけでも大きな安らぎが得られるのであります。
困って、困って困り抜いて、自分をごまかさずに困ればこそ道は開かれるのであります。
横田南嶺