良薬
実にこの二月は、どういうわけか出向の多い月となりました。
お寺の和尚様の葬儀の場合、すぐに内々で密葬を行い、日を改めて津送とよぶ本葬儀を行います。
津送というのは、『禅学大辞典』によれば、「津は渡船場。人の死出を送ること。送葬のこと」であります。
この頃は、コロナ禍ということもあって、簡略化することが多いのですが、丁寧にお葬儀を務められることは尊いことであります。
喪主を務める今の住職は、私のもとで修行した者であります。
しっかりと先代の和尚の葬儀を勤めてくれるのは頼もしく思いました。
儀式の大切さについては、以前書いたことがありましたが、コロナ禍ということもあって色々変化もある中で、なんとか報恩の為にと務めることは有り難いことであります。
そのお寺に出掛ける折に、日光東照宮にお詣りしました。
もう二十数年前に、修行僧だった頃に、先代の管長のお伴をして、今回葬儀を勤めるお寺に出掛けて、その折に、日光東照宮をお詣りしたことを思い出したのでした。
師のお伴をしてお詣りしたことは、今となっては懐かしい思い出であります。
平日ではありましたが、大河ドラマの影響もあるのか、大勢の方がお詣りになっていました。
改めて東照宮の豪華な建築には目を奪われました。
それにしてもこれだけ壮大なお墓を作られた家康公の偉大さを改めて思いました。
輪王寺にもお詣りしました。
こちらも壮大な伽藍であります。
お堂の中に入ると、天台宗栃木教区布教師会の伝道の言葉が掲示されていました。
良い言葉だったので、書き写してきました。
陰徳についてです。
いんとく とは
だれも みていない ところで
よいことを すること
いんとく とは
だれも みていないから といって
わるいことを しないこと
いんとく とは
そのひとに きづかれないように
そのひとのために すること
いんとく とは
ひとから してもらった よいことに
きづくこと
いんとく とは
きょう いちにち
それが できたか できなかったか
ふりかえること
とても大事な教えだと思いました。
このところ、坂村真民記念館での講演を前にして改めて『坂村真民全詩集』全八巻を読み返しています。
ざっと通読するだけでもいろいろと感慨深いものがあります。
「良薬」という短い詩がありました。
心無罣礙は万病の良薬
身心を空にし病魔を退散させる
というものであります。
身心を空にするというと、「からっぽ」という詩もござました。
頭を
からっぽにする
胃を
からっぽにする
心を
からっぽにする
そうすると
はいってくる
すべてのものが
新鮮で
生き生きしている
という詩であります。
心に罣礙無しというのは、『般若心経』でも大事なところであります。
竹村牧男先生の『般若心経を読み解く』にも、
「『般若心経』はこれまで、無い、無い、 ……と否定をくり返してきたわけで、最後は「無智亦無得」と言われていたのでした。
これをうけて、ここにいよいよ結論的な部分に入ってくることになります。
「心無罣礙」、このことこそ『般若心経』が導く究極的な世界といってもよいでしょう。」
と書かれています。
罣礙の「罣」はひっかかり、「礙」はさまたげです。
「この漢語の意味から言えば、心にとらわれ、ひっかかり、わだかまり、障害の一切がなくなって、晴れ晴れした境地が開けるということになります。」
と解説されています。
金岡秀友先生の『般若心経』には、「罣礙」の内容が詳しく説かれています。
「この心に罣礙無しとは具体的にはどのような状態を指すのか様々な説明がされている」として、
「身心共に解脱し、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽の八風に動ぜられることがない(八風がないのではない)。」というのであります。
八風とは何かというと、『仏教辞典』には、
「利(もうけ)・衰(おとろえ)・毀(そしり)・誉(ほめたて)・称(ほめしらせ)・譏(とがめ)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)の八種」を言います。
また金岡先生は、「四魔に煩わされぬことを指すともいわれている」と説いています。
四魔というのは、「五蘊(うん)魔・煩悩(ぼんのう)魔・死魔・天子魔という四種の魔(四魔)」を言います。
「五蘊魔」とは「肉体と精神より生じる魔障」です。
「煩悩魔」とは、「迷い、妄想から来る魔」です。
「死魔」とは、「生命を奪う魔」です。
「天魔」とは、「原因不明の魔障。欲界第六天に魔がおり、その所為で起こるとされる七難」をいいます。
七難は、人民疾疫難という疫病など、他国侵逼難といって他国に侵略されること、自界叛逆難といって内乱が起ること、星宿変怪難といって星々の異変、日月薄蝕難といって太陽や月の異変、非時風雨難といって季節外れの大雨、過時不雨難といって季節になっても雨がふらないことなどを言います。
金岡先生は「八風・四魔がないというのではない。
これは科学的事実であって未来永劫ひとの世からなくなるということはない。
ただ、それを「深般若」の眼によって見、それが事実であるのだから、煩わされぬよう観行の修行をすれば、いわゆる「見・聞・覚・知」の万境に無礙自在を得、そのひとの心中に「八風」「四魔」が働くことがなくなる、というのである。
「八風」「四魔」なき心とはすなわち、自由自在・無礙自在の境地であり、尤々と遊ぶ心である。何を恐れ、何をか避けよう。
「無罣礙」の人は、「無恐怖」の人である。」
と説かれています。
この世を生きるからには、八風はつきものです。
四魔もまた避けることができません。
生を受けた者は必ず死を迎えます。
葬儀などを行うことによって、残された者は、その死を受け入れてゆきます。
ただそのなかで心を空っぽにして、とらわれずに生きるのです。
その心を空っぽにすることこそが最高の良薬となります。
横田南嶺