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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.02.21
今日の言葉

敬うもののある暮らし

先日久しぶりに上洛して、京都で講演をしてきました。

主催は臨黄教化研究所であります。

臨黄というのは、臨済宗と黄檗宗という意味です。

臨済宗と黄檗宗と十五の本山が、合同で研究会を行っています。

もう十七回目だそうです。

昨年も講師を頼まれたのですが、オンラインでの開催となってしまいました。

今回は、花園大学の中にある教堂という建物で行われました。

それに先立ち、大学に出勤していました。

総長室というお部屋を頂いていますので、そこで、いろんな報告を受けたり、打ち合わせをしたりしています。

今回有り難いと思ったのでは、とある先生が訪ねてくれて、『パンダはどこにいる?』の本を教材として使いたいと言ってくださったのでした。

ちょうど、この絵本の増刷が決まったとの知らせも頂いていましたので、有り難くうれしく思いました。

小さな絵本ですが、お役に立てば何よりであります。

そのようにほんの少し大学でお仕事を済ませて講演に臨みました。

会場の教堂は、いつも大学の授業で使っていますので、慣れた場所であります。

しかし、聴衆がすべてがお坊さんというのは、慣れないものであります。

やはり同業者に話をするというのは、やりにくいものであります。

しかも各大本山の総長さんたちが、最前列にお坐りになっていると、緊張するものであります。

今回の研究会のテーマは、「コロナ禍の現状と未来 -我々のあり方を考える-」というものでありました。

そこで私が、講演の題を、「どうする、これから」としたのでした。

これは決してNHKの大河ドラマの影響を受けたのではなく、大河ドラマのことは全く存じ上げずに、昨年のうちにこの演題にしていたのでした。

これからわたしたちはどうしたらいいのか皆さんと一緒に考えようと思ったのでした。

私が申し上げたいことの結論は、二月十九日の管長日記にも書きましたように、お互いが、「まず、よろこぶこと」「よろこびに満ちた暮らしをすること」これに尽きるのであります。

たしかに、少子高齢化に過疎化、後継者不足に檀家の減少、そして寺離れ、コロナ禍により儀式の簡略化が進み、そして更に追い打ちをかけるかのように宗教への不信がつのってそれらは止りそうにないのであります。

各宗派においても、もはや宗教法人の解散という話題も耳にするのであります。

しかし、そのように駄目かもしれないといって、暗い顔をしていては誰も来ません。

まずよろこぶことだとカトリックの神父様に教わったのですが、わたしたちもまずお互いが、坐禅することに喜び、仏教を学ぶことに喜んで暮らしていることが一番だと思います。

このことが伝えたいことの一番でありました。

それから、はじめには儀式の大切さについても話しました。

いつだか大学に出勤した折に、学長から聞いた話があります。

今の花園大学の学長は磯田文雄先生でいらっしゃいます。

もともと文部科学省にいらっしゃった方であります。

学長から儀式の大切さについて話をうかがいました。

学長は東京大学の出身で、一時期東大では入学式、卒業式をしなかったことがあるのだそうです。

たしかに儀式をしなくても卒業はできますし、入学もできるのであります。

しかし、やはり入学式、卒業式という儀式があった方がいいということになったというのでありました。

磯田先生の著書『教育行政』(ミネルヴァ書房)に次のように書かれています。

「各学校で実践されている音楽祭、文化祭、体育祭、さまざまな体験活動、特別活動、これらは秘儀化機能の回復という観点から見ても大いに教育的意義がある。

子ども達は社会との関係において、他者とのかかわりにおいて自分の価値を見出し、自の顔を獲得していくのである。」

とありますように、儀式を行うことによって、「他者とのかかわりにおいて自分の価値を見出し、自の顔を獲得していく」というのであります。

アイデンティティーを確立してゆけるのであります。

そこで磯田先生は、人生の最大の儀式は葬儀であるのに、どうして今の葬儀の簡略化に対して、お坊さんは何も言わないのですかということを仰いました。

その通りで、葬儀は人生最大の儀式であります。

この儀式を通して、人は死を受け入れていくのであります。

そこで、昨年この教化研究会の講演をした時には葬儀の大切さについてお話しました。

それから一年経って思うことはやはり儀式の簡略化は進んでいるということです。

一般の方の葬儀だけではなくて、お寺の儀式もまさに同じなのであります。

コロナ禍ということが追い打ちをかけているようにも思います。

「コロナだから」という理由で何でもありになりつつあるようにも感じます。

お寺の儀式、葬儀や齋会という和尚様の法要、本堂などの落慶もそうなのです。

お寺の大きな儀式となると、本山の管長をお招きしたり、修行道場の老師をお招きして行っています。

ただこれはやはりたいへんなのであります。

管長や老師をお招きするとなると、この頃のようにメールで頼むというわけにはいかないので、何度もお寺に出向いて打ち合わせやお願いしないといけません。

お迎えなどの手配も必要であります。

迎えるにしても何人もの和尚様にお手伝いをお願いしないといけません。

何度も打ち合わせ、会議もしないといけません。

それらをすべて省いて内々で済まそうというのが、このコロナ禍の現状であります。

そうするとかなり労力が減るのであります。

しかし、それでいいのかという事について、私自身の経験をもとに語ってみました。

私は、小学生の時に初めてお寺に行って坐禅をしました。

子どもながらに死について考えて、その答えを見つけたいという思いでお寺を訪ねました。

そのお寺に由良町の興国寺目黒絶海老師という方がお見えになっていたのでした。

その老師の風貌、たたずまいから、この老師について修行すれば死についての問題が解決するように思ったのでした。

そうして坐禅を始め、老師について禅問答も始めたのでした。

ただその折にもうひとつ深く感動したのが、その老師をお迎えする、お寺の和尚様のお姿でありました。

私が坐禅に行ったお寺の和尚様は、学校の先生もなさっていました。

当時は、お寺の和尚様というのも、学校の先生というのも尊敬されるものでありました。

敬われるものでありました。

子どもにとっては怖い存在でもありました。

そのお寺の和尚様が、実に平身低頭して老師とよばれる方をお迎えしているのであります。

心から尊敬し、敬っていることがそのお姿に現れていました。

その敬われてお見えになった老師が仏様の前で、これまた丁寧に礼拝されたのでした。

その礼拝のお姿に感動しました。

敬うものがあるというのは素晴らしい世界だと子どもながらに思ったのでした。

そうして、私はその敬うものがある世界に憧れてこの道に入ったのでした。

ですから、お寺の儀式も簡略化ばかりしないで、お寺の和尚が、敬う暮らしをしている様子を見てもらうのも大事だと思うのであります。

そんな私の体験から来る思いを伝えました。

森信三先生が、

「尊敬するものがなくなった時、その人の進歩は止まる。

年とともに尊敬するものが、はっきりして来るようでなければ、人間も大成はしない」と仰せになっています。

尊敬するものを持つということは素晴らしいものであります。

人間として生き方を深めてくれます。

お仏壇に手を合わせるとか、神棚に手を合わせるとか、神社にお参りして手を合わせるとか、日常の暮らしの中に敬うものを持つことで心が豊かになり、人間として成長させてくれます。

講演では、そんな思いも伝えたのでありました。

 
横田南嶺

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