不生禅について
その『禅文化』二六八号で、盤珪禅師の特集を組むことになりました。
その企画で、神戸にある祥福寺僧堂の岩村宗昂老師と対談をさせていただくことになりました。
祥福寺は神戸市内にあり、後ろに山を抱えているお寺であります。
祥福寺は、なんといっても開山は盤珪禅師であり、そして山田無文老師が、師家を勤めておられたお寺であります。
盤珪禅師御開山の道場で御修行され、道場の老師となられた岩村宗昂老師に、是非いろいろと盤珪禅師にことについておうかがいしてみたいと思ったのでした。
岩村老師は、まだ道場の老師になられて三年ほどでいらっしゃいます。
大学院で西洋哲学を学ばれた老師でもいらっしゃいます。
指定の時間より少し早く着いたでの、境内の奥にある、盤珪禅師のお墓と、山田無文老師のお墓にお参りしてきました。
さすが修行道場だけあって、境内の隅から隅まで掃除が行き届いていて、掃き清められていました。
修行僧の方には、ご迷惑にならないようにそっとお参りしようと思ったのですが、すぐに見つかってしまい、お手数をかけることになってしまいました。
祥福寺は山を背負って建っているお寺で、一番奥には立派な塔があり、そのよこに盤珪禅師はじめ歴代の老師方のお墓がございました。
盤珪禅師を一番奥にして、ずらりと並ぶ老師方のお墓には、凛然たる趣がございます。
静かに読経をさせてもらいました。
山田無文老師には、私はそのご生前に一度お目にかかっています。
無文老師は、祥福寺僧堂の師家でもあり、花園大学の学長でもいらっしゃいました。
この祥福寺の僧堂で、大勢のすぐれた禅僧を輩出されているのです。
私が無文老師にお目にかかったのは、高校生の時でありました。
無文老師が妙心寺の管長に就任なされて、NHKのラジオ宗教の時間で、「菩提心を起こしましょう」というお話をされたのを聞いて感銘を受けました。
「この地球を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへでも跣足(はだし)で歩ける。
が、それは不可能である。
しかし自分の足に七寸の靴をはけば、世界中を皮で覆うたと同じことである。
この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。
しかし自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを捧げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったにひとしい」
というお話をされたのでした。
こんなお話をなされる方に一度お目にかかりたいと思ったのでした。
思う事は必ずかなうと申しますが、ご縁が実って、無文老師が和歌山県にお越しになって、湯の峰の旅館にお泊まりになった時に、その旅館の女将さんのご好意で、お目にかからせていただいたのでした。
白いおひげを生やした老師は、この世の方とは思いがたいような高潔なたたずまいでありました。
しばしお話させていただいたのでしたが、人間というの修行すれば、こんな崇高な人格になるのだと深く感銘を受けました。
それまでもずっとお寺に通って坐禅をしていましたが、この道に入ろうと決意したのは、この無文老師にお目にかかったときでありました。
その老師のお墓にお参りできたので感慨無量でありました。
その後岩村老師にお目にかかってご挨拶致しました。
岩村老師は、無文老師にお目にかかったことはないとのことでした。
また岩村老師は、この祥福寺の僧堂で修行されて、網干の龍門寺でも御修行なさっていたとのことでした。
その龍門寺こそは、盤珪禅師のお寺なのであります。
盤珪禅師は、元和八年(一六二二)、現在の兵庫県姫路市網干区浜田でお生まれになっています。
生家は、今はお寺になっているということですが、龍門寺のすぐ近くにあるということでした。
父親は、儒者であり医師でもあった方でした。
二、三歳の頃より、死ぬということが嫌いで、泣いた時でも人が死んだまねをしてみせるか、人の死んだことを言って聞かせると泣き止んだというのです。
この死を恐れる心は、無常を観る心でもあり、菩提心にも通じるものであります。
八、九歳頃になると、隣村の大覚寺に手習いに通わされました。
大覚寺は、浄土宗西山派の大刹であります。
盤珪禅師が十一歳の時に父が五十一歳で亡くなりました。
もともと死に対して深く感じる盤珪禅師のことですので、大きな衝撃であったろうと察します。
十二歳の時に、郷塾で『大学』の講義を受けました。
その時に、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」の一句を聞いて、「明徳とは何か」大きな疑問を抱きました。
その後、何とかしてこの「明徳」を明らかにして、年老いた母にも知らせてあげたいと思って、「色々あがきまわった」というのでした。
とある儒学者が、そのような難しいことは禅宗の和尚が知っているので、禅僧に問えと言われました。
近くに禅寺はなく、赤穂にある江西山随鴎寺の雲甫全祥和尚について得度しました。十七歳の時でした。
二十歳で行脚に出ました。
それからはいつどこでどのような修行をされていたかは詳らかではありません。
いろんなところをわたり歩いて修行したものの、肝心の明徳は明らかにならず、とうとう二十四歳の時に、故郷に帰り、赤穂の北にある野中村の小庵に入ったのでした。
そこでは、一丈四方の牢屋のような小屋を作り、出入り口をふさいで、ただ食べ物だけを出し入れできるようにして、大小便も中から排泄できるようにして、ひたすら念仏や坐禅に徹したのでした。
とうとう病に罹り、血の痰を吐くようになってしまいました。
更に食も喉を通らなくなり、七日程絶食、ついに死を覚悟しました。
明徳の解決ができずに死ぬのかと思っていたところ、あるときに
「ひょっと一切のことは不生で調ふものを、今日まで得知らいて、さてさてむだ骨を追った事」と気が付いたのでした。
雲甫和尚も、「汝徹せり、大いに達磨の骨髄を得たり」と喜んでくれたのでした。
二十六歳のときでありました。
そののち、明の国から見えた道者禅師に参じたりされますが、ひたすら盤珪禅師は「不生の仏心」を説かれたのでした。
一人一人、誰しも親から産んでもらったのは、仏心一つであること、それ以外の短気だとか、憎しみ、ねたみというものは、親は何一つあなたに産み付けていないのだと説かれました。
そうであるのに一切の迷いは、自分自身をことさら可愛がることから生じるのだと説かれています。
「不生の仏心」というのは、何かによって作られたものではなく、もともと、初めから授かってあるものであり、それは滅することもないのです。
そのことを知っていたら、仏心をわざわざ迷いの心に替えることはないのです。
わざわざ努力をして仏になろうとしなくても、本来の仏心はもともと具わっているので、わざわざ仏になろうとする必要はないと説かれました。
迷いさえ起こさなければ、あなたはそのままで仏の心なのだというのです。
その仏の心、本来の心のままで暮らせばいいというのが盤珪禅師の教えであります。
その盤珪禅師の教えが、「不生禅」という言い方で説かれるようになりました。
対談では、盤珪禅師の教えがなぜ早く途絶えてしまったのか、現代において盤珪禅師の教えを学ぶ意義とは何かなどについて話し合いました。
岩村老師は、盤珪禅師の教えはやさしいように見えて、実は厳しいものだと指摘され、その優れたご見識をうかがうことができました。
対談が『禅文化』に掲載されるのが楽しみであります。
伝統ある道場を訪ね、祖師のお墓にお参りして、その伝統を今も守っておられる老師にお目にかかれることは、実に有り難いことでありました。
横田南嶺