まず、よろこぶこと
一月二十二日の記事です。
大和運輸が初めて出荷したのが、昭和五十一年だったと書かれています。
四十七年前のことです。
電話一本でドライバーが各家庭を回り、荷物を集めて次の日には相手の手元に届けるという「宅急便」のサービスを広げたのでありました。
今ではもうあたりまえのことにように思っていますが、私が思い返しても、まだ大学に入る頃には、駅留めで荷物を輸送していました。
それが家に届くようになったと聞いて驚いたことを思い起こしました。
ところが『産経抄』には、
「『翌日配達』がわが国の日常となったいま、モノの巡りは血液の巡りに等しい役目を担っている。血の流れが滞れば、体はどうなるか。そんな懸念が現実になるかもしれない。」と書かれています。
「トラック運転手の残業規制強化で、人手不足が予想される」というのです。
そこで、「25年には、荷物の約28%、30年には約35%が運べなくなるとの推計を野村総合研究所が公表した」と書かれています。
「ネット通販の普及で物流業界への負荷は増えているのに、トラック運転手の年収は他の業種より低いとか。」
最近出版された『未来の年表 業界の大変化 瀬戸際の日本で起きること』という本にも同じようなことが書かれています。
この本には、寺院についても深刻な問題が書かれています。
「多死社会なのに「寺院消滅」の危機」という章があります。
2015年に、鵜飼秀徳先生が『寺院消滅』という本を出されています。
衝撃的な題名の本でありました。
今からもう八年前の本なのであります。
寺院消滅という言葉も定着してきているのかと思いました。
寺院の解散や住職のない寺院のニュースをよく耳にするようになっています。
『未来の年表』にも、これらは、「少子高齢化や人口減少の影響だ」と書かれています。
そして、浄土宗総合研究所が2012年6月に実施されたアンケート調査結果として、
「過去20年間で檀家数が減少した寺院は61.1%にのぼるという」と書かれています。
「過疎地域どころか、いまや政令指定都市ですら人口が減り始めており、檀家軒数の減少は全国的な問題になってきている。」というのが実情です。
更に「軒数が減るだけでなく、檀家の高齢化も寺院経営に悪影響を及ぼす。 年金収入だけとなった人や、 認知症を患いながら一人暮らしという人などが増え、若い頃のような額のお布施を払えなくなる人も出てきている。一人暮らしの檀家が、 子供世帯と一緒に暮らすために遠方へと引っ越す例も珍しくない。墓参りのたびに故郷に帰るのは負担が大きいとして、引っ越しと同時にお墓を移転する人もいる。」というように、寺を離れていく人は増えているのであります。
少子高齢化に過疎化、後継者不足に檀家の減少、そして寺離れ、更に追い打ちをかけるかのように宗教への不信が募り、コロナ禍で儀式の簡略化が進んで止りそうにないのであります。
先日お目にかかった方が仰っていました。
ある若い和尚から相談を受けたのだそうです。
どうも私どもの禅宗のお寺のようでした。
お寺に生まれて、修行して寺に帰ってきたけれども、このままでは檀家が減ってしまって、暮らしてゆけないのではないかということに気がついた、どうしようもないと言って、鬱状態になっているというのです。
檀家の減少というのは、そう簡単に止められるものではありません。
ではどのようにしてゆくつもりかとその若い和尚に聞くと、なにも分からないと答えたというのでした。
考えさせられる問題であります。
この和尚が修行道場にどれくらいいらっしゃったのか分かりませんが、修行道場に入るとはじめの二年乃至三年は、余計なことを言わず、余計なことをせず、ただ言われた通りのことをするという修行をします。
これは、今まで形成してきた自我意識を否定するための修行であります。
しかし、そこから更に五年十年と修行を積み重ねるうちには、修行道場の運営にも携わるようになって、どうしたらいいかなど積極的に考えるようになってゆきます。
ところが、実際には二年乃至三年で修行を終える人の方がはるかに多いのであります。
いわれたことしかできないというのは、いろんな世界でも耳にする若者の傾向なのかもしれませんが、今の修行道場のあり方にも問題があるように感じました。
そんなことを考えている時に、カトリックの片柳神父様に出逢うご縁に恵まれました。
対談の中で、何のはなしだったか忘れましたが、この寺院の問題に触れました。
後継者難の話からだったように思います。
修行道場で修行する僧の数が激減しているのであります。
そんな話をしていると、片柳神父様は、カトリックも深刻なのだと仰いました。
神父になる人が減ってしまって、もう神父がいなくなるかも知れないというのでした。
教会に足を運ぶ人も高齢化が進んで若い人がなかなか来ないし、もう教会もなくなるかもというのでした。
何も仏教だけはないのだと思いました。
特に神父さまは、今も結婚しないという伝統を守っているので、なお一層厳しいように思いました。
そこで私はカトリックでは、この問題にどう対応するのですかと尋ねました。
すると、片柳神父様は、すかさず只今のローマ教皇聖フランシスコさまの言葉を教えてくださいました。
教皇は、「まずわたしたちが、よろこぶことです」というのです。
「よろこびに満ちていることです」ということです。
教会にいる者が、暗い顔していてどうするのかというのです。
「信徒が減る、神父になる人がいない、教会もなくなるかもしれないと暗い顔して嘆いているようなところに誰が集まるものですか、まずわたしたちが、信仰の喜びに満ちた暮らしをすることです」というのであります。
これは素晴らしいことだと感動しました。
確かにその通り、寺はなくなるかもなど嘆いているようなところには、誰も来ないでしょう。
先日湯島の麟祥院の勉強会のときにもそんな話をしましたら、小川先生もご自身がこの研究の道に入ったのは、
学生の頃に接した先生のお姿に感銘を受けたからだと仰って、自分たちがもっと魅力あるようにならねばとお話くださいました。
わたしたちが、毎日坐禅すること、仏教を学ぶことに心から喜んでいるかが問題であります。
まずわたしたちがよろこぶことだという言葉に、大いに反省させられました。
横田南嶺