微笑
そのなかにこんな話があります。
小泉八雲の友人の話であります。
その方が、「馬を駆って横浜の山の手から下りてくると、空の人力車が一台、曲がり道の左右間違った側を登ってくるのに気がついた」そうです。
一部を引用しますと、
「手綱を引いたところで間に合わなかったし、手綱を引こうともしなかった。特に危険だとも思わなかったからね。
ただ私は、その車夫に向かって日本語で、『道の反対側に寄れ!』と怒鳴ったんです。
ところが車夫は、俥を反対側に寄せずに後退させたまま、曲がり道の低くなったお堀側に向けて停めてしまった。
そして、車夫は梶棒を道の方に向けたままにしておいた。
あのときの馬の速度では、衝突をさける余裕などなかったからね。
そして次の瞬間には、俥の一方の梶棒が、わたしの馬の肩にぶつかった。
でも、車夫の方は怪我ひとつ負わなかった。
ところが、馬の肩から血が流れているのを見て、私はかっとなってしまい、手にしていた鞭の柄で、車夫の頭をごつんと殴ってしまった。
すると彼は私をじっと見つめ、微笑を浮かべ、そしてお辞儀をしたんです。
今でも、あの『微笑』を思い浮かべることができますよ。
あの時ばかりは、反対に、まるで私がごつんと殴られたような気がしたよ。
あの微笑に私はすっかり参ってしまって、一瞬の内に怒りがすべて消えてしまいました。
それはねえ、実に礼儀正しい微笑といえるものだったんです。
だけどあの微笑には、どんな意味があったんだろう。
怒りに駆られた私が、どうしてあの男を微笑ませることができたんだろうか。
私にはわからないのです」
というのであります。
小泉八雲も、友人に言われた時にはまだ微笑の意味が分からなかったと書かれています。
「しかし現在では、例の話の時よりもずっと、あの不思議な微笑の意味が、わかるようになった。」と書かれています。
そして、八雲は「日本人は死に直面したときでも、微笑むことができる。
現にそうである。
しかし、死を前にして微笑むのも、その他の機会に微笑むのも、同じ理由からである。
微笑む気持ちには、挑戦の意味合いもなければ、偽善もない。
従って、われわれが性格の弱さに由来すると解釈しがちな、陰気なあきらめの微笑と混同してはならない。
日本人の微笑は、念入りに仕上げられ、長年育まれてきた作法なのである。」
というのであります。
更に八雲は、
「日本の子供なら、生まれながらに備わっている、微笑を生む暖かい心根は、家庭教育すべての全期間を通して養われる。
しかもそのやり方は、手をついてする丁寧なお辞儀と同じように教えられる。」と語っています。
そして次のように考察されているのです。
「相手にとっていちばん気持の良い顔は、微笑している顔である。
だから、両親や親類、先生や友人たち、また自分を良かれと思ってくれる人たちに対しては、いつもできるだけ、気持ちのいい微笑みをむけるのがしきたりである。
そればかりでなく、広く世間に対しても、いつも元気そうな態度を見せ、他人に愉快そうな印象を与えるのが、生活の規範とされている。
たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凛とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのである。
反対に、深刻だったり、不幸そうに見えたりすることは、無礼なことである。
好意を持ってくれる人々に、心配をかけたり、苦しみをもたらしたりするからである。」
というのです。
小泉八雲が日本に来て見た、明治時代の日本人というのは、微笑を絶やさない人たちだったのです。
だから、次の言葉には、深く考えさせられてしまいます。
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。
人生の喜びは、周囲の人からの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。」
というのです。
この言葉は講演などの折によく、紹介するものです。
今は幸福というと、個人が幸せになることだと思われますが、明治の頃の日本人にとっての幸せは、まわりの人たちが幸せになることだったのです。
そして更に、次のように書かれています。
「そんなわけだから、日本の社会では、嫌みや、皮肉や、意地の悪い機知などは通用しない。
洗練された生活には、そういうものは存在しないとさえ言えるかもしれない。
個人的な欠点は、嘲笑や非難の対象とはならず、空飛な行いを、とやかく言われることもなく、思わぬ過ちを笑われることもない。」
というのであります。
これが、八雲の見た百二十三年前の日本人の姿なのです。
今はどうでしょうか。
「嫌みや、皮肉や、意地の悪い機知など」は世に横行しているのではないかと思われます。
個人的な欠点が嘲笑や非難の対象となることなど多くあるのではないでしょうか。
八雲の『日本の面影』を読むと、明治の頃に比べて今何を失ってしまったのか深く考えさせられるのであります。
改めて、松居桃樓先生の『微笑む禅』にある、
「一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は
どんなに小さくても、大事に育てよう、ほほえみの芽は。
この二つさえ、絶え間なく実行してゆくならば、人間が生まれながらに持っている、いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむ心が輝きだす。
人生で、一ばん大切なことのすべてが、この言葉の中に含まれている」
という言葉を胸に刻むのであります。
横田南嶺