漬け物桶に塩ふる
『広辞苑』によると、
「俳人。本名、秀雄。鳥取県生れ。東大法学部卒。
保険会社の要職から一切を捨てて放浪生活に入り、口語自由律の絶唱を生む。
句集「大空(たいくう)」など。(1885~1926)」
と書かれています。
よく山頭火と並び称せられる自由律の俳人であります。
「自由律」というと、
「短歌または俳句の一様式。
在来の31字または17字の形式を破ったもの。
和歌では前田夕暮、俳句では河東碧梧桐・荻原井泉水らが提唱。」
と『広辞苑』には説明されています。
山頭火よりは三歳年下ですが、同時代を生きた俳人であります。
東京帝国大学法学部を卒業して、東洋生命保険に就職しました。
大阪支店次長を務めるなどしていましたが、三十八歳の頃、一燈園に入ったのでした。
一灯園は、西田天香さんが創立した無所有奉仕の生活を行う修養団体であります。
更に三十九歳で、京都の知恩院塔頭常称院の寺男となりました。
一か月ほどでその寺を追われ、六月には神戸市にある須磨寺の大師堂の堂守となりました。
明くる年には、須磨寺を去り、福井県小浜市にある常高寺の寺男となりました。
常高寺を去って、京都の荻原井泉水の仮寓に身を寄せていましたが、荻原井泉水の紹介で、小豆島霊場第五十八番札所、西光寺奥の院の南郷庵に入りました。
四十一歳で南郷庵にて死去しました
戒名は大空放哉居士と言います。
須磨寺には、放哉の代表作のひとつである、
「こんなよい月をひとりで見て寝る」という句碑がございます。
「咳をしても一人」
という一句がもっともよく知られているでしょう。
山頭火は、この句に和して
「鴉啼いてわたしも一人」
と詠ったのでした。
一人というと、山頭火には
「やっぱり一人がよろしい雑草」
「やっぱり一人はさみしい枯草」
というふたつの句があります。
人間というのは、やっかいなもので一人がよろしいと思う時もあれば、一人はさみしいと思う時もあるものであります。
さて、放哉が須磨寺にいた時の句として、
漬物桶に塩ふれと母は産んだか
という句があります。
なんとも複雑な思いが込められているようです。
私などのように単純な人間には計りがたい一面があるのだと思います。
私でしたら、
堂堂と漬物桶に塩をふる
という句を作るでしょうが、これでは平凡すぎて句にはならないのでしょう。
こんな放哉の句を思い出すのは、二月になって修行道場で沢庵漬けを行ったからでした。
円覚寺の修行道場では、一月中旬に、三浦地方に托鉢に行って大根をいただいて参ります。
少し遅めになっていると思います。
いろんな事情があって、このような日程になっているのだと思います。
大根鉢といって、三浦地方に円覚寺派のお寺が二ヶ寺ありますので、そのお寺の檀家、信者さんを主に、農家の方々のお宅に托鉢にあがります。
一軒一軒の家の前で四弘誓願を唱えて、お札をお届けましす。
そして、そのおうちでつくった大根を数本ずついただくのであります。
これが托鉢の精神だと思っています。
お釈迦様が、『法句経』の四十九番に
「蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
聖者が村に行くときは、そのようにせよ。」
と仰せになっている通りなのです。
蜜蜂は、決して花を損なうようなことはしません。
必要な蜜だけをいただくのであります。
大根の農家さんにとって、たくさん取れた大根のうちのほんの数本を修行僧に施しても困ることはないのです。
それを家々から集めますと、何百本もの大根になります。
その大根を三浦にあるお寺の境内を使わせていただいて干します。
干した大根を、二月になると取りに行くのであります。
取ってきたら、漬物樽に漬け込むのであります。
私も毎年必ずこの大根漬けを行っています。
率先して、漬物桶に塩をふり糠を混ぜているのです。
放哉のような気持ちで漬けたことはありません。
放哉はたしかに東京大学を出て、立派な会社に勤めていたのに、それが寺男となって漬物桶に塩をふっている、それを母がみたらどう思うだろうかという複雑な心境を句にしたのでしょう。
私は開きなおって、堂堂と塩をふっています。
今の時代になると、漬物や発酵食品の良さも見直されています。
いよいよ益々堂堂と漬物をつけているのであります。
沢庵は、塩を少なめにした浅漬けから、塩をたっぷり入れて何年も持たせて古漬けにするものまで数種類漬けています。
浅漬けの沢庵などは毎年いただいていますが、とてもおいしいものであります。
こんな季節毎の行事は大切にしています。
修行時代に、とある禅僧から、禅僧たるものは、たとえどんな寺に入っても、沢庵漬けや梅干しを漬けることを忘れてはならないということを聞いて特に意識して欠かさないようにしています。
こういうことが禅僧としての原点になります。
原点をしっかり定めてこそ、いろいろな活動も生きてくるのだと思っています。
今年は二月も多くの行事が入っていたのですが、予定表のなかのほんのわずかのすき間の時間で漬けることができました。
横田南嶺