円覚寺の大鐘
明治二三年の事ですから、明治時代の円覚寺の様子などもよく分かるのです。
三門から仏殿、そして勅使門について書かれたところを昨日紹介しました。
『日本の面影』では、勅使門を見たあとで、「さあ、次は大きな釣鐘を見に行きましょう」と案内をしていた方に促されて、大鐘を見にゆくのであります。
恐らく時間の都合で、奥の方まで行けなかったのではないかと察します。
「私たちは、蒼苔の生えた、六、七メートルほどの高さの土塀の小道に沿って下り、左手に曲がる。
すると、ひどくくずれかけた石段の前に出る。その石段の継ぎ目や割れ目から、若草が生え出ている。
石段は無数の人々の足によって踏みしだかれ、磨滅し、崩れかけている。その石段を登ってゆくのは、骨が折れることだし、危険でさえある。
それにもかかわらず、私たちは足を踏みはずすこともなく、頂上へと辿り着いた。登りつめた所には、小さなお堂があった。」と書かれています。
大鐘に登る石段は、今はきれいに整備されて登りやすくなっていますが、私が鎌倉に来た頃もずいぶんと古びたものでありました。
「この大釣鐘は、中国風の反った屋根の付いた、四方に開けた桜閣の下につり下がっている。釣鐘の高さは、八メートル以上もあり、直径は約四メートル半、縁の厚みは、二十センチほどもある。
釣鐘のかたちは、口の方に向かって開いている西洋風の鐘とは異なる。
全長が同じ口径の長さになっていて、そのなめらかな金属の表面には、経文が刻み込まれている。
この大釣鐘は、屋根の梁から鎖でつるされ、昔の破城槌のような重い撞木の縄が付いている。うまく音が出るように、その縄を上手に引っ張って、鐘の脇腹に彫られた蓮の花に向って打ちつけるのである。」
と書かれています。
昭和六〇年に発行された『瑞鹿山円覚寺』には、この鐘について「関東地方で最も大きく、かつまた鎌倉時代の代表的な秀作として名高い国宝のつり鐘がかかっている」と書かれています。
そして「これは正安三年(一三〇一) 八月に大檀那貞時が寄進し、鋳物師物部国光が造ったものである。」というのです。
北条貞時公の時に作られたものなのです。
「つり鐘は、身丈が二メートル六〇センチ近くもある大きな鐘である」とも書かれていて、鋳造にあたっての苦労が語られています。
『瑞鹿山円覚寺』から引用しますと、
「貞時が、父時宗の志をついで、円覚寺に大鐘を造って国家の安泰をねがい、寺の法器として永久にそなえようと、巧匠に命じて鋳造しはじめるのだった。
しかし、鐘を鋳ること再三におよぶも失敗するばかりなので、困りはてた貞時は、時の住寺西澗子曇に相談して師の教えをあおいでみた。
子曇は、江ノ島の弁才天に深く祈願し、七日間におよんで参籠せよと貞時にいう。
師の教えのとおり、江ノ島弁天を一心に祈った貞時は、ある夜、不思議な夢をみる。
夢中に現われた神霊が貞時に呼びかけた。
寺内の宿龍池の水底をさぐってみよ…と。
貞時は神霊の告げどおりに池底をさぐってみると、ひと塊りの龍頭形の金銅を手にすることができるのだった。
彼は感涙この上ない思いに浸ったという。
そして、さっそくその銅をもって鐘を鋳たところ、たちまちに鐘を造ることが出来たので、のち、その霊験に感じた貞時は、江ノ島から石像蛇形の弁才天を、大鐘の神体として鐘楼のかたわらに勧請し、「洪鐘大弁才功徳天」と名づけて祀ったというのである。
この堂は、伝説にちなんで建てられた宇賀神(弁才天)をまつる弁天堂である。
なお、大鐘の銘文を撰したのは、さきの住僧子曇であり、鐘に刻まれた銘文によると、鋳造に喜捨助縁した信者は五〇〇人におよび、勧進に心をよせた当山の僧侶は二五〇人であったことがわかる。」
というのであります。
このようなご縁があって、今も大鐘のそばに弁天堂が残っているのであります。
さて、『日本の面影』を読むと、実際に小泉八雲もこの鐘を撞いていたのであります。
「先ほどの僧が、その釣鐘を突いてみるように私に促す。私はまず手始めに、手で釣鐘の縁を触ってみた。音楽的な音が響いた。
それから、私は力をこめて鐘に撞木を打ちつけてみた。
すると、大きなパイプオルガンの低音部の豊かで深い雷鳴のような響きが途方もなく大きく美しい響きが あたりの山々にこだました。
それから、小さな美しい反響音が、そのあとを追うようにして鳴り響いた。
たった一度鳴らしただけなのに、この素晴らしい釣鐘は、少なくとも十分間ほどもうなり続けたのである。この釣鐘の年齢は、何と六百五十歳だという。」
と書かれているのであります。
重厚な鐘の音色は今も変わりません。
今は国宝の大鐘ということで、一年に数回つくだけですが、明治の頃には、こうして参拝に来た方にも撞かせていて大らかだったことが分かります。
この弁天さまの祭礼が、一四八〇年(文明十二年)以来、六十年に一度行われてきています。
洪鐘祭は庚子年(かのえね・こうし)に行われることが多く、前回は一九六〇年(昭和三十五年)の庚子年に行われる予定でしたが、昭和三十九年の仏殿再建のために遅れて、一九六五年(昭和四十年)に開催されました。
本来ならば、二千二十年に開催の予定でしたがコロナ禍の為に延期が続いてしまい、ようやく今年の秋に開催の予定であります。
横田南嶺