衣のいろいろ
後半の二日ほどは、氷点下になりました。
寒いところで坐禅するに慣れているつもりでも、やはり氷点下になると、手が痛くなります。
足は素足であっても坐禅中は足を組んでいますのでそれほど寒くはないのです。
しかし、手は衣の外にだして、法界定印という印を組んで坐りますので、冷たいというより痛くなります。
それでも静かに坐っていると、だんだんと血行もよくなるのか、気にならなくなるものです。
こうして一週間の修行を終えるとホッとしますものの、注意しないといけないことがあります。
こんな一休さんの話を思います。
一休さんには、いろんな逸話がございます。
とんちの話から実にさまざまであります。
ただ、その話のほとんどは、一休さんご自身のものではなく、後になって一休さんの話として伝えられたものだそうです。
そんなことは、一休さんの研究をなされている花園大学の飯島孝良先生からうかがいました。
一休さんの衣の話もそのひとつであります。
あるお金持ちが、父親の供養に一休さんをお招きすることになりました。
依頼を受けた一休さんは、わざとぼろの衣を着てまるで物乞いのような出で立ちでそのお金持ちの門の前に立ちました。
家の者は「うすぎたない坊主だ」といって追い出しました。
その翌日、一休さんは身を清めて、立派な衣に金襴の袈裟をつけ、そのお金持ちの家に行きました。
家の主は大喜びで出迎え、一休さんを法要の導師の席に案内しようとしました。
しかし一休さんは動きません。
読経のあと、主がお斎(食事) をすすめると、一休さんは法衣と金襴の袈裟を脱ぎ、お膳の前に置き、
「昨日は家の前で追い払われたのに、今日は見事なご馳走をご用意くださります。
昨日も今日も中身は同じで、違うのは衣だけです。
まさに、本日のご馳走は金襴の袈裟がいただいたようなものです。」
といったという話であります。
「一休も破れ衣で出るときは乞食坊主と人は言うらん」
という和歌も伝わっています。
この話は、よく法話などにも使われるものです。
よくできた話であります。
たしかに人はその着ているものでいろいろ判断をしてしまいます。
また何を着てもいいというわけでもないでしょう。
その時その場に応じた服装というのものはあるのですから、みだりに一休さんをまねしても何にもなりません。
しかし、服装だけ着飾ればいいという考えを戒めたものだと言えます。
私なども儀式の折には立派な法衣や袈裟を身につけますので、そのたびにこんな一休さんの話を思い出して、中身のないことをしみじみ慚愧しています。
ただ法衣といっても単なる着物の話だけではありません。
『臨済録』には、こんな言葉があります。
岩波文庫の『臨済録』から入矢義高先生の訳文を引用します。
「皆の衆、衣に目をくれてはいけない。
衣は自分では動けない。人がその衣を着るのだ。
衣には清浄衣や無生衣や、菩提衣や涅槃衣や、祖衣や仏衣などがある。
しかし皆の衆、こうした名前や文句はすべて、対象に応じて着せかけた衣だ。
下っ腹から空気を振動させ、歯をかち合わせて言葉となったもので、こんなものに実体のないのは明らかだ。
諸君、こうして外に音声言語が発せられるのは、内なる心のはたらきの表われであり、意思が動いて想念を起こすのだ。
だからそれらはみな衣である。
ところが、君たちはそれが着ている衣だけに目を注いで、それを真実だと考えている。
そんなことでは、たとえ無限の年月修行しても、衣についての通になるだけの話だ。
迷いの世界を堂々めぐりして、生死輪廻することになる。」
という実に厳しい言葉なのです。
衣といっても、自分は長年修行したのだという清らかになったようなふりをする衣をまとうこともあります。
悟りを得たのだということが、衣になっていることもあります。
修行したことや、学んだことなどが、自分の衣になっていることがあるというのです。
たしかにその通りと思わされます。
なにか衣を着飾りたいのがお互いであります。
しかし、臨済禅師が力説されたのは、
「赤肉団上に一無位の真人有り」ということであります。
『臨済録』には、
「上堂、云く、赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。」とあります。
衣川賢次先生は、『新国訳大蔵経 中国撰述部①ー7禅宗部六祖壇経 臨済録』のなかで
「諸君の裸一貫の身に位階なき真人がいる。
それが顔から出入りしておるぞ!
まだ確認しておらぬ者は、今こそ看とどけよ!」と訳されています。
衣川先生の註釈には、
「「赤肉団」は身体をいう。「肉団」は肉のかたまり、生身のからだ。ゆえに「肉団身」ともいう。また「赤肉」ははだかの身。つまりみな肉体のことである。」
と書かれています。
衣を脱いだ裸の身なのであります。
修行しただの、お経を覚えただの、あるいは悟りを開いただのという衣さえも脱ぎ捨てたところが大切なのだと思います。
一箇の人間としていきいきとはたらくところに臨済禅師の教えがあります。
寒い中での坐禅はたしかにたいへんではありますが、ほんの少しばかり寒い中で坐禅したからといって、こんな修行をしたのだという、自分を飾る衣にしてはならないと自戒しています。
横田南嶺