生き方、死に方
私からすれば、この道の大先輩でいらっしゃいますが、どういうわけか目をかけていただいて、何度か宝泰寺さまへ法話にお招きいただいています。
そんな東演和尚から新刊本を頂戴しました。
『自分らしい死に方』という題であります。
「死に方」などというと、驚くかもしれません。
サブタイトルに、「禅僧がたどりついた死の実相、生の極意」とあり、オビには「死は終わりではない!」とメッセージがございます。
では、この「死に方」というのは、何を言っているのかというと、本書の第一章が「生き方が死に方を決める」という題の通りなのです。
「生き方と死に方はひと続き」だと説かれています。
はじめのところで、東演和尚のお寺の近くにいらっしゃるという「 痔の手術の名医といわれる老先生」の話が興味深いものです。
その老先生の言葉を引用しますと、
「何人もの直腸がんの重症患者さんも長年診てきたんだが、 およそ二種類に分かれると気づかされた。
こんな重い病気なのに、よくまああんなに明るく、みんなにありがとうと言えるなあという、心がとても穏やかな患者さんがいる一方で、聞くに堪えられない文句や愚痴を言って、家族の方や看護師さんを困らせる、とてもわがままな患者さんがいるんだよ。
どうしてこんなに違うのかと、患者さんを観察してきた。
看護師にも話を聞いてきた。
その結果、わかったことがある。
わがままな患者さんは、これまでの人生も自己本位だった人が多いということだ。
言いすぎかもしれないが、わがままに生きてきた人は、わがままな死に方をするんだ。
落ち着いて静かに死を迎える患者さんは、人のために何か役立つようなことをしてきた人が多いようだ。
誠実に生きてきた人は、最後まで思いやりがある。いい人生だったんだろうと思う」
というのであります。
そこで東演和尚は、この老先生の言葉から「死に直面してオタオタする人と心穏やかにいられる人の違いは生き方の違いにある」のであって「つまり、「生き方が死に方を決める」という結論になる」と説かれています。
死に方というのは、その人の生き方が決めるものなのであります。
そこから、死にまつわるさまざまな問題について、話が展開してゆきます。
東演和尚は、とてもよく勉強さている方なので、説かれる話も実に豊富で、読んでいても引き込まれてゆきます。
また本書の有り難いことは、どの本からの引用であるのかを、それぞれきちんと明示してくれているのであります。
経典や、古典の書物から現代の書物まで実に幅広いものです。
中には私の著作も引用していただいていて恐縮しました。
書物には載っていない話もまた有り難いものです。
優れた老師の逸話などは、大いに参考になります。
東演和尚が修行時代に師事された林恵鏡老師の話が印象に残ります。
本書には、
「東福寺管長だったわが師・林恵鏡老師は機知にあふれ、当意即妙、大空に遊んでいるようなさわやかな人だった。
「その時その場を、生き切り死に切るとはこういうことか」と、いつも感銘せずにはいられなかった。
一方で、「悟りを開いた方でも悲しい時は悲しいのですか」と聞かれて、「悲しい時は悲しいものだよ」と答えていた。」
という話があって、深く心に響きます。
また恵鏡老師は、一人でいるのが寂しいと思うこともあれば、一人でいるのが有り難いと思うこともあるという意味の和歌を残されている事を紹介して、東演和尚は、
「いくら悟りを開いても、やはり悲しい時は悲しいし、うれしい時はうれしい。
その時その時に起きる念は真実である。
だが、老師はその念を引きずらなかった。
「寂しいけれど、一人もまたよいものだ」と、さっと心を転じることができたのだ。」
と説かれています。
それから死については、朝比奈宗源老師の著書を引用してくださっています。
それは、「第七章 「大いなるいのち」に包まれて死生する」というところです。
「私たちは、生きて肉体がある以上、煩悩が起こり、迷い苦しむ。
しかし、死ねば煩悩のもとである肉体がなくなるから、迷い苦しむことがなくなる。
大いなるいのちと、自ずと一つになれる。
この大いなるいのちを、朝比奈宗源老師は、「仏心」と呼ぶ。こう言っている。
「私どもは、仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引きとるのでありまして、仏心からはずれて生きることも、仏心のほかに出ることも、できないのであります。
たとえれば、私共は仏心という広い心の海に浮ぶ泡のようなもので、私共が生まれたからといって仏心の海水が一滴ふえるのでも、死んだからといって、仏心の海水が一滴へるのでもないのです。
私共も仏心の一滴であって、一滴ずつの水をはなれて大海がないように、私共のほかに仏心があるのではありません」
仏心の世界には、私たちの祖先もいるし、釈尊も祖師方もいる。
みな、この世にいる時は、AとかBとか個の人格を持っているけれど、仏心の世界に帰ると個性とか人格は失われ、一枚の大仏心に溶け合うのだと、老師はていねいに説かれている。」
と紹介してくださっています。
そして東演和尚がこの朝比奈老師の著書にめぐりあったご縁について書かれいてます。
「朝比奈老師の教えに出会ったのは、生後たった八ヶ月で長男を亡くし、四国霊場を巡拝したり、本を読みあさったりした時のことだ。
その中で『仏心』という著書を知った。
亡き息子が邂逅させてくれたのだ。
二度と戻らないわが子を、憐憫の情から探し求めることは未練には違いない。
だが、わが子の死後の行方がわからない限り、私たち夫婦の心は平穏になれないと思った。
老師の教えを知って、霧が急に晴れたように、亡き子の行方がわかった気がした。
息子は無に帰したのではなかった。
祖父母ともども、大らかな仏心の世界に帰入しているのだと感じた。
自分も死ねば、仏心の世界に帰る。 息子の世界に融合できる。
その時、言葉で言い表せない大きな安らぎを覚えたのである。」
というのは、ご自身の深い悲しみを経ての言葉だけに深く心に響きます。
宝泰寺の藤原東演和尚の新著『自分らしい死に方』、死に方なんてまだまだ先と思わずに、今の自分の生き方を学ぶものだと思って、参考にして欲しいものです。
横田南嶺