一日のうちでも輪廻する
まず『広辞苑』で「輪廻」を調べてみると
「①〔仏〕(梵語saṃsāra 流れる意)衆生が三界六道の中で死と再生を繰り返し続けることを、車輪の回転にたとえた語。迷いの世界を生きかわり死にかわること。流転。輪転。
②同じことを繰り返すこと。どうどうめぐり。
③執着心の深いこと。
④和歌の回文。
⑤連歌・俳諧で、1巻の中に既出の句と同様の発想の句が繰り返されること。付合つけあい上、最も嫌うべき禁制事項。」
という五つの意味が書かれています。
「輪廻転生」というと、
「迷いの世界で何度も生まれ変わること」
と書かれています。
では、更に岩波書店の『仏教辞典』を調べてみると、原語サムサーラで、「流れる」という意味だそうです。
そこから「さまざまな(生存の)状態をさまよう」ことを意味するようになったのだということです。
そして「生ある者が生死を繰り返すことを指す」のであります。
「輪廻転生」「生死」「生死流転」などとも訳されるのです。
また「現代インド諸語では「世界」を意味する」とも書かれています。
「輪廻思想は古代ギリシアや古代エジプトにも知られるが、インドでは業思想と結びついて倫理観が深められ、輪廻の状態を脱することが解脱・涅槃であり、インドの諸宗教に共通する目的となっている。」
と解説されています。
じつにお釈迦様の教えも、この輪廻の苦しみから如何に脱するかということを説かれたものなのです。
さらに『仏教辞典』には「インド思想」の輪廻について、
「ヴェーダの来世観は楽観的で、死後には天上界で神々・祖霊と交わることを願い、悪業によって地獄におちることを恐れていたが、死後他界においても再び死が繰り返されることから、再死を克服し不死を獲得することが説かれるようになった。
死者のたどる道は神々(天)・祖霊・地獄の3種に分かれ」と解説されているように、もともとインドのヴェーダには、天と祖霊と地獄の三つに輪廻すると説かれていたようです。
紀元前六世紀以降、バラモン思想に対抗してさまざまな思想が興りましたが、仏教とよく比較されるのがジャイナ教です。
ジャイナ教では、「世界は霊魂と非霊魂からなり、行為によって霊魂に業が流入する。この業身(ごっしん)が天・人・畜生・地獄の世界に輪廻する。
付着している業の汚れを滅することで解脱し、そのための苦行を重んずる。」というのであります。
ジャイナ教では、天、人、畜生、地獄の四つに輪廻すると説かれていたことが分かります。
さらに仏教思想ではどうかというと、
『仏教辞典』には、
「仏教でも輪廻思想を採用し、人・天・畜生・餓鬼・地獄の五つの輪廻の世界(五道・五趣)を説く。
後に大乗仏教では阿修羅が加わり、六道(六趣)輪廻として流布し、わが国でも定着している。」
と説かれています。
もともと仏教では、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五つに輪廻すると説かれていたのでした。
それに阿修羅が加わったのです。
阿修羅は、「血気さかんで、闘争を好む鬼神の一種」なのです。
今の日本では主に六道輪廻が説かれます。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つであります。
この六つの世界を輪廻すると説かれ、信じられてきました。
この地面を深く深く掘ってゆくと、地獄の世界があると信じられていたのでした。
この天の上には、天の神々が住む世界があると信じられていたのでした。
そして人間は死ぬとそのどこかに生まれ変わると信じられていました。
この考えは、倫理の上でもよいものです。
生前悪いことをすると次に地獄に生まれると教えられると、悪いことをしないように心がけるものです。
しかしながら、近代科学の発達と共に、このような六道輪廻も信じ難いものとなってきました。
今も実際に地面を掘っていくと地獄があると思う人は稀でしょう。
東嶺和尚は『入道要訣』の中で、これら六道は、お互いの心が作り出すのだと説いています。
しかも死んでから生まれ変わるのではなく、今も生きている間に、輪廻をするのだというのです。
もっと言えば一日の間にも輪廻を繰り返していると説いているのです。
心が正しくはたらいて、邪な思いがないときは人間界だと説いています。
ところが、自分の思うようにいかないことがあって、怒りを起したときは、修羅になっているというのです。
また逆に自分の好きなものに執着して欲しがるのは、餓鬼の世界になっています。
ものを思って、心がふさがってしまい、正しく考えられない時は畜生の世界になっています。
そして、ものを思うことも強く、執着もはげしく、怒りの炎もやまず、更に人を苦しめ、ものを害するようになると地獄だというのであります。
そして、心が静まって、もの思いにふけることもなく、胸中が澄みわたった時は、天上界に遊んでいるときなのです。
そうすると東嶺和尚は、お互い一日のうちにも六道を何度も何度も輪廻していると説くのです。
更に東嶺和尚は、この一日のうちで人間の心を保っているときは少ないと指摘されています。
天上界に遊ぶような時はもっと少ないのです。
畜生のように物思い、餓鬼のように執着し、修羅のように怒り、地獄のように人を苦しめものを害する時が多いのです。
お互いは、一日のうちで、どの世界にいることが多いか考えてみよと東嶺和尚は仰せになっています。
六道のうち、地獄、餓鬼、畜生、修羅というのは四つあります。
六分の四ですから三分の二になります。
東嶺和尚も一日の三分の二は、この悪道に輪廻していると説いています。
だから、ふだんのままの気持ちでいると、悪い方に惹かれてしまうのです。
悪道に落ちることは免れないというのです。
そこで心を起こして仏道に励むべきだと説いているのです。
一日のうちにも輪廻しているという東嶺和尚の教えは心に響きます。
「朝は神 昼は人間 夕されば獣に近き 心悲しも」という和歌も思い出します。
人は一日のうちでも早朝心も澄みわたり神のような心境にもなれば、人間の世界で営むこともあれば、なんと畜生にも劣ることもあります。
一日でどんなに輪廻しているのかを観察してみることは輪廻から脱れる第一歩であります。
横田南嶺