鏡開き
『広辞苑』には、
「(「開き」は「割り」の忌み詞)
①正月十一日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。
近世、武家で、正月に男は具足餅を、女は鏡台に供えた餅を正月二十日(のち十一日)に割って食べたのに始まる。鏡割り。新年
②祝い事に酒樽のふたを開くこと。鏡抜き。」
と解説されています。
十一日頃と書かれていますので、いろいろあるのだと想像します。
修行道場では、六日の晩に鏡開きを行う習慣になっています。
正月気分は六日までで、七日の朝からもとの修行に戻るのであります。
六日まで三日間かけて般若札を信者さんのお宅にお配りして正月行事は終わるのであります。
松の内というと、『広辞苑』では、
「正月の松飾りのある間の称。もと元日から15日まで、現在は7日までともする。標(しめ」の内。」
と書かれていますが、修行道場ではもう六日の夕方には、松飾りをとってしまうのであります。
そうして皆でぜんざいをたいて、お餅を入れていただくのであります。
昨年にも書いたことですが、その鏡開きには、くじ引きをしてささやかな景品をもらうことになっています。
景品といってもタオルや手拭いなどたいしたものではないのですが、私が修行した頃には一等賞には、老師の書を頂けることになっていたのでありました。
なかなか一等になることは少なくて、私も一度だけ頂戴したことがあります。
修行僧にとっては、老師の直筆の書を頂けることは滅多にないので、とてもうれしいものでありました。
私は頂いた書を早速ふるさとに送ってあげたのでした。
親が喜んでくれたことを今も思い出します。
この頃は、私がみんなに行き渡るように色紙や短冊を書いてあげています。
ただ、それぞれ異なる言葉を書いて、どの言葉が当たるかを楽しみにしてもらっています。
よく『論語』の言葉を書くことが多いのです。
昔から、『論語』にある言葉が、『禅林句集』に入れられていることばが多いのであります。
「吾が道、一以て之を貫く」というのもよく書いています。
これは原文には「子の曰わく、参よ、吾が道は一以てこれを貫く。曾子の曰わく、唯。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。曾子の曰わく、夫子の道は忠恕のみ。」
とあります。
岩波文庫の『論語』にある金谷治先生の訳を引用しますと
「先生がいわれた、「参よ、わが道は一つのことで貫かれている。」曾子は「はい。」といった。
先生が出てゆかれると、門人がたずねた、「どういう意味でしょうか。」
曾子はいった、「先生の道は忠恕のまごころだけです。」」
となっています。
忠恕の「忠は内なるまごころにそむかぬこと、恕はまごごろによる他人への思いやり」という意味です。
長いのでは、
「莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人を得て、沂に浴し舞雩に風じて詠じ帰らん。」というのもあります。
これは長い話なのですが、岩波文庫の『論語』の解釈を参考にしながら解説します。
子路と曾暫と冉有と公西華とが孔子のおそばにいました。
孔子がいわれました、
「わたしがお前たちより少し年うえだからといって、遠慮をすることはない。
もしだれかお前たちのことを知って、自分を用いてくれたとしたら、どうするかな。」と。
すると、子路がいきなりお答えして言いました、
「兵車千台を出すていどの国が〔万台を出すような〕 大国の間にはさまり、さらに戦争が起こり飢饉が重なるというばあい、由(このわたくし)がそれを治め三年もたったころには〔その国民を〕勇気があって道をわきまえるようにさせることができます。」
という威勢のいいことを言いました。
それを聞いた孔子はそのことばに笑われました。
「求、お前はどうだね。」と冉有に聞くと、
「六、七十里か五、六十里四方の〔小さい〕ところで求が治めれば、三年もたったころには人民を豊かにならせることができます。礼楽などのことは、それは君子にたのみます。」と。
「赤、お前はどうだね。」と公西華に聞くと、
お答えして、「できるというのではありません、学びたいのです。
宗廟のおつとめや諸侯の会合のとき、端(たん)の服をきて章甫の冠をつけ、いささかの助け役になりたいものです。」
曾暫に「点、お前はどうだね。」と聞くと、瑟をひいていたのがとまると、カタリとそれをおいて立ち上り、お答えして言いました。
「三人のような立派なのと違いますが。」と。
孔子が「気にすることはない。ただそれぞれに抱負をのべるだけだ。」といわれると、答えたのが、この言葉でありました。
金谷先生の訳文には
「春の終わりごろ、春着もすっかり整うと、五、六人の青年と六、七人の少年をともなって、沂水でゆあみをし、雨乞いに舞う台地のあたりで涼みをして、歌いながら帰って参りましょう。」といったのでした。
孔子はああと感歎すると「わたしは点に賛成するよ。」といわれたというのです。
孔子の人となりを偲ばせるいい話であります。
禅の修行もやり抜いた果てには、このような心境になるというものであります。
私などもとても及ぶべくもないのですが、禅の理想の心境として心に留めておきたいのであります。
世界が平和になって、皆もこんな心境になって暮らして欲しいものです。
そう思って揮毫したのでした。
横田南嶺