本性は似たようなもの
短い言葉ですが、深い意味があります。
岩波文庫の金谷治先生の『論語』には
「子の曰わく、性相い近し。習えば、相い遠し。」
と読まれています。
金谷先生は、
「先生がいわれた、
「生まれつきは似かよっているが、しつけ(習慣や教養)でへだたる。」
と訳されています。
宇野哲人先生の『論語下』(明徳出版社 中国古典新書)には、
「性、相近し、習い、相遠し」と読んで、
「生れつきは似たりよったりで、習慣によって大変な相違を生ずると。
韓退之の詩の中に、子供が二人生れて、生れた当時は似たりよったりだけれども、だんだん年をとってくると一人は竜のようになって、一人は豚のようになってしまうというような有名な詩がございますが、やはり生れた時は大差ないもので、教育、修養によって大変な相違を生ずるというわけです。」
と解説されています。
『論語』では、その次に
「子曰はく、「唯だ上知と下愚とは移らず。」」とあります。
これは金谷先生の訳によれば、
「先生がいわれた、「〔だれでも習いによって善くも悪くもなるものだが、〕ただとびきりの賢い者とどん尻の愚か者とは変らない。」ということなのです。
宇野先生は、
「やはり孔子はどうも三段に見ておられるようです。
上知の生れながらに知るような人はもうそれ以下に悪くなる気づかいはありませんが、またもっとも下等な愚かな人間はどう教えてみてもこれはしようのないものだ。
そうすると中人というのがありますから、孔子は「性相近し」といわれましたが、人にはやはり上、中、下の三段ぐらいはあるという考えがあったらしく思われます。
これはきわめて常識でしょう。」
と解説されています。
人の本性は、似たりよったりという表現は興味深いものです。
仏教や禅のように、皆同じ本性を具えているとは説かないのです。
達磨様の語録には、生きとし生けるものはみな同一の真性を具えているとはっきり説かれています。
ただそれが煩悩妄想に覆われていて現れていないだけなのだというのです。
「一切衆生悉有仏性」という教えがそれです。
すべての衆生、生きとし生けるものには皆仏となる本性があるという教えです。
大乗の涅槃経に説かれています。
ここでいう仏性というのは仏になる因のことで、衆生の中には仏と同じ徳性があって、それが成仏が可能だというのです。
『論語』では、その本性は似たりよったりだけれども、その習慣や教養によって隔てが出てくるというのであります。
しかし、その次に、「ただとびきりの賢い者とどん尻の愚か者とは変らない」というのがどういうことをいうのでしょうか。
この言葉は、前の言葉ともともとは一続きであったとも言われているようです。
実は『涅槃経』に於いても、「ただし、一闡提(いっせんだい)を除く」と付加されているのであります。
一闡提というのは、「この場合、仏法を謗(そし)るもの、不信の徒をさす」と『仏教辞典』には書かれています。
「しかし、経(大本涅槃)の後半では一闡提の成仏も認める」とも書かれています。
仏教のなかでも法相宗では「五性各別」という教えもございます。
これはどういうことかというと、『仏教辞典』には、
「衆生が先天的に具えている宗教的人格の素質(性)を5種に分かち、それは決定的に確定しているとする説。
<性>は<姓>とも書き、種姓(しゅしょう)(種性)の略である。
1)声聞定性(しょうもんじょうしょう)、
2)独覚(どっかく)定性、
3)菩薩(ぼさつ)定性、
4)不定性(ふじょうしょう)、
5)無種性(むしゅしょう)(無性)の五つをいう。
前の三つはそれぞれの修行道と得られるべき悟りの果が決まっていて変更が許されないとされ、これを<決定性(けつじょうしょう)>という。
4)の不定性はそれが決まっていなく変更がゆるされるもの、
5)の無種性は悟りを得ることのできないものである。
以上の5種のうち、成仏(じょうぶつ)しうるのは3)と4)のみである」
というものです。
日本仏教の歴史においても日本天台宗の開祖最澄が、法相宗の徳一とのあいだで論争が行われたのでした。
天台では、すべては皆成仏すると説きます。
法相では、五性格別で、成仏できないものもいるというのです。
このどちらが本当かで論争されたのであります。
私がこの頃しみじみと思うのは、人間というのは、常に相反するものふたつが同居しているということなのです。
その相反するものが同居していると、お互いはどちらが正しいか白黒はっきりつけたがりますが、白黒つけられないのが、人間の真実だと思うのであります。
そういう矛盾を抱えたのが人間だと思います。
ですから、人間には、誰しも皆同じ本質を具えているという一面と、どうにもならない一面も具えているのであります。
どちらかを切り捨てるというわけにはゆかないのです。
そんな人間であるからこそ、常によき習慣を身につけ、常に学び続ける必要があるのであります。
横田南嶺