すべては光る
真民先生は昭和二十五年から六年間、この吉田高校の教師をなさっていました。
吉田というのは宇和島にある町で、昔は吉田藩と言いました。
宇和島藩の支藩であります。
宇和島藩は伊達政宗の子である伊達秀宗が初代藩主であります。
その秀宗の子、伊達宗純(むねずみ)が、吉田藩の初代となっています。
吉田藩の三代藩主伊達宗春(後に村豊に改称)は、元禄十四年十九歳の折、浅野内匠頭と共に、勅使院使饗応役を務めています。
浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に対して刃傷を起こした際には、内匠頭の取り押さえに加わっています。
真民先生は吉田高校のあと、宇和島東高校に移りますが、また昭和四十年に吉田高校に戻って二年教師を勤めています。
ですから合計八年務めていることになります。
この吉田高校に勤めていた頃に、吉田藩の菩提所である大乗寺に参禅されていたのでした。
大乗寺には、吉田藩のお殿様がお越しになるときの為の特別の玄関が作られているのであります。
そんなご縁のある吉田高校に真民先生の詩碑ができたというのはうれしいことだと思ったものでした。
平成二十九年のことでした。
『すべては光る』という題の真民先生の詩集があります。
曹洞宗宗務庁から出版された本です。
オビには、松原泰道先生が推薦の言葉を書かれています。
“三歳の童子にもわかる詩を書け”とさとされて、だれの心にもしみ通る詩をうたう真民さん。
長い時間に堪えてゆく作品を一篇でも多くと、こころに詩を彫る真民さん。
身体が弱い真民さんは、毎日蜂蜜をいただいて健康を保つ。
その花の情けと、蜂の労苦に感謝の詩をささげる真民さん。
そして、わが肉体を支える足の裏を「足裏菩薩」と称名して詩を奉る真民さん。」
と書かれています。
『すべては光る』のあとがきには、
「書名の「すべては光る」というのは、わたしの宇宙観、自然観、人間観といってもよい、わたし独自の見方であり、考え方であり、生き方である。
わたしは吸飲と呼んで、母の乳のように光を吸ってきた。
「すべては光る」という信仰も、そうした体験のなかから生まれてきたものである。わたしの詩に、
光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る
というのがある。
少し付け加えるならば、他から光を受けて光る、というのが大事なところであって、わたしのような者は、大いなるもののおん力、おん光を受けて、存在しているのであって、そのことを知らせて下さったのも、毎暁の光礼拝、光吸飲の信仰体験からであった。
雨はあまねく降る。光もくまなく注ぐ。
その差別なさが、わたしを感動させるのである。
山河草木、鳥獣虫魚、悉皆万象、すべては光る存在なのである。
でもマッチや蠟燭を持っているだけでは駄目で、点火するものがあって初めて光を発するのである。
その点火させるものは何か。
それを問うてゆかねばならぬ。また、そういう人に出会わねばならぬ。
わたしは晩成の人間なので、この光の存在を知るまで長い間かかった。
そしてようやく光というものが、どんなものであるかを知った。」
と書かれています。
この「すべては光る」という詩を読むと、私は思い出す真民先生の話があります。
一人の少年との出合いであります。
真民先生の『愛の道しるべ』から引用させてもらいます。
「わたしも中学(今の高校) 教員免許状を持って学校を出たが、不景気のどん底時代で職はなく、代用教員として海辺の小学校の教員となった。
五年の男子組を受け持たせられたのであるが、そのクラスに四年間、(一部省略)何一つ教えられず、ただ教室の片隅に机だけ与えられて、文字一つ書けない子がいた。
クラス引き継ぎの時も、あの子はただ腰掛けさせておけばいいですよと言われ、四年間どの教師も、それを何とも思わず受け継いできたと見え、本当に何一つ知らなかった。
わたしは満八歳の時、父が急逝し、一ぺんにどん底へ落ちてしまった生活をしてきたので、こういう子を見るとじっとしておれない性質である。
そこで、そろばんを与え、一たす一から教えていった。
授業が終えると職員室のわたしの机の下に坐らせ、一たす一、一たす二、一たす三と教え、下の珠が五になると、上の珠をおろす、ただそれだけに、どの位の日数と時間とをかけたであろう。
わたしは、その頃ずいぶん遠い処から自転車通勤をしていたが、この子はそろばんをしっかりと握って、わたしがやってくるのを校門の外の道に立って、待つようになった。
代用教員だから体操などはできず、いつも近くの川口に魚取りに連れて行った。
この子は、その魚取りの名人だった。川口にはさよりがいて、このすばやいさよりを、一瞬にして手捕みにするのであった。
まさにそれは名人芸であった。
ある日、この子が、こんなことを授業後言った。
「先生、けさはめし三杯食ってきたんだ。米のめしでうまかった」と。
貧しい家だったが、きっと何かで米のめしをたいたのであろう。
それでその喜びをわたしに伝えたかったのである。
わたしは職員室に帰り、この話をしたら、皆がびっくりし、あの子が先生に話しかけたのは入学してから初めてだろう、と言うのであった。
わたしは嬉しかった。
わたしはこの組をもう一年持ち、小学校を卒業させた」というのです。
その後真民先生は朝鮮にわたって教員をなさるのでした。
四国に住むようになるのは、戦後日本に帰ってからでした。
この詩集に「愛」という題の詩が載せられています。
愛
燃えるものは
いつかは燃えつきる
流れるものは
いつかは流れつきる
大木も土となり
高楼も崩れ去る
そのように
常住なものは
何一つないが
愛だけは残るだろう
だから小さい愛でもいい
この世に残してゆこう
わたしはタンポポが好きだから
タンポポに託してゆこう
弥勒出現の時も
咲いているタンポポに
どんな人にも、道ばたに咲く花にも、鳴く鳥にも注がれた愛を詠ったのが真民先生の詩であります。
横田南嶺