あっ私だ!
村上信夫先生に差し上げたところ、早速先生のブログで取り上げてくださっていました。
私が理事を務めている禅文化研究所のブログでも取り上げてくれていました。
それから懇意にしている千真工藝の竹本社長のブログでも、御孫さんに読み聞かせていることを書いてくれていました。
実に有り難いことであります。
パンダがパンダになりたいと思って、あれこれパンダの図鑑を見たりしているというのは、私たちが仏になりたいと思って、仏像の本を見たり、仏像展に行ったりしているようなものなのです。
笹を食べてパンダのマネをしようとするのは、坐禅をして仏のマネをしているのと同じなのです。
いろいろ仏について書物を読んで研究するのも同じなのです。
ところがある時に、ふっと仏とは私だと気がつくのであります。
パンダの絵本では、道のぬかるみで転んで水たまりに映った自分の姿を見て気がつくのであります。
水に映っているのは、パンダの姿だと思ったことでしょう。
しかし、ふっとこのパンダというのは、「あっ私だ!」と気がついたのです。
これは唐代の禅僧洞山禅師の話を想定しています。
洞山禅師が修行時代に河をわたっていて水面に映った自分の影をみて悟ったという話です。
その時に漢詩を作られています。
これが古来「過水の偈」として知られています。
この漢詩の訳文を小川隆先生の『禅思想史講義』から引用させていただきます。
“他(かれ)”につき随って覓めてはならぬ
“我(われ)”とははるかに疎遠なひとだから
よって”我”は今、ひとり行く
するとこんどは到る処で、”渠(かれ)”と出逢う
“渠”は今まさしく”我”である
しかし”我”は今”渠”ではない
そのように会得して
はじめて如如に契うことができるのだ
というものです。
椎名宏雄先生の『唐代の禅僧7 洞山』には、
「法身(かれ)と肉身(われ)とが、別物ではなく一つであることを体得した歓喜にほかならない」と解説されています。
「つまり、かれをわれとの出合いとは、仏としてのおのれとの出合いであった」というのであります。
パンダは私だと気がついたのです。
もとめていた仏とは私だと気がついたのでした。
私の知人が、仏像を拝んでいて、ああ、これは私だと気がついたと言っていましたが、そのような目覚めなのであります。
小川先生は、この偈について
「現実態の「我」と本来性の「渠」、その二にして一、一にして二、という不即不離のうえにある自己」という表現をなさっています。
この二にして一、一にして二というのが、この偈の大事な処でもあります。
一は平等、二は差別であります。
この平等と差別の関わりを丁寧に説かれたのが、洞山禅師などの一派でありました。
その細かな穿鑿はここでは取り上げないでおきます。
絵本では、水に浮かんだパンダの姿をみて、「あっ私だ」と気がついたところが大切なのです。
この洞山禅師は、幼くしてお寺に入って修行していました。
初めて般若心経を教わった時の話がよく知られています。
一日か二日で覚えてしまったので、お寺の和尚は次のお経を教えようとしました。
しかしまだ幼い洞山禅師は、「般若心経がまだ分かりませんから、別のお経はあとにしてください」と言いました。
「すっかり覚えてしまっているのに、なぜまだだというのか」と問われると、洞山禅師は、「経文の中の一句がわからない」と答えました。
どの一句かというと、「無眼耳鼻舌身意」という句だというのです。
洞山禅師は、自分の顔を撫でて私には眼耳鼻舌などがあるのに、どうしてお経には無いと書いているのかというのであります。
そこで、そのお師匠さんは、自分はあなたの師ではない、五洩山に行って霊黙禅師に師事するように諭したという話なのであります。
この霊黙禅師は馬祖禅師に参じた方でありました。
洞山禅師は十歳から十二歳にかけてこの霊黙禅師について修行しました。
しかし、十二歳の時に霊黙禅師は、七十一歳でお亡くなりになってしまいました。
霊目禅師がお亡くなりになるときに、ある僧がどこへ行ってしまうのですかと聞きました。
霊黙禅師は、行くところなどないと答えました。
私には見えませんというその僧に対して「目には見えないのだ」と言ってお亡くなりになったのでした。
洞山禅師は後に、この話を取り上げて霊黙禅師のことをすぐれた禅僧だったと褒め称えています。
霊黙禅師が亡くなって洞山禅師は更に行脚します。
その頃遠く行脚に出掛けるにあたって、母へ書いた手紙が伝わっています。
これが誠実で親孝行な洞山禅師の青年時代を思わせるので、『唐代の禅僧7 洞山』から椎名宏雄先生の訳文を引用させてもらいます。
「つつしんで申しあげます。仏たちが世に出られたのは、みな父母から身を受けたからであり、あらゆる生物の出生は、大自然によって庇護されたからであります。
つまり、父母なくしては生まれず、大自然なくしては育ちません。
すべて養育のご恩をいただき、ともに大自然による庇護の恩徳を受けております。
ところが、すべての生物も事象のありさまも、みな無常であり生滅をいたします。
つまり、母上からの受乳の厚情は重く、養育の恩は深いにもかかわらず、贈り物をいたすぐらいでは、とてもそれに報いることはできません。
おいしいご馳走をつくって差し上げても、どうして老後を長らえさせましょう。
ですから、「孝経」には「毎日親にご馳走しても、それでもまだ孝ではない。」とあるとおりです。
もしも悪い報いを引いてしまえば、永らく輪廻することでしょう。
この極まりない深い恩に報いるには、出家の功徳に勝るものはありません。
つまり、迷いの人生のしがらみを截ち、煩悩の苦しみをこえれば、永遠の父母に報い、限りない慈愛に応えて、この世の父母・衆生・国王・三宝に報いることになるからです。
ですから経文では、「一子が出家すれば、その家では九代が天に生まれる」と説いています。
良价(わたくし)は、今生のいのちを捨てて、もう誓って生家には戻りません。 (中略)
今はいよいよ互いにお別れしますが、わたくしはけっして親不孝をおそれてなどおりません。
思いますに、時は人を待ってはくれません。
「この身を今生で救わなければ、いったいいつの時に救えようか」といわれるとおりであります。
どうか尊い胸のうちに、わたくしを思う心を起されませぬように。」
という文章なのであります。
若き日の洞山禅師の一途な思いが伝わってまいります。
そうして行脚を重ねて、ようやく川の面に映った姿をみて気がつくことができたのでした。
横田南嶺