四つの喝
同時代を生きた徳山禅師と共に、お二人で臨済の喝、徳山の棒と言われるのであります。
「喝」を漢和辞典で調べると
1{動詞}しかる。どなる。はっとのどをかすらせて大声で人を制しとどめる。
2{動詞}人をおどす。▽大声でどなることから。
3{動詞}はっはっとかすれ声を出す。
4{動詞}[俗語]水や酒を飲む。
という説明があります。
『広辞苑』には、
「大声を出すこと。大声で叱ること。特に、禅宗で励まし叱るときの叫び声。また、大声でおどすこと。」と解説されています。
今でもお葬式の折に、臨済宗では、引導の最後に一喝することが多いと思います。
『臨済録』にはこの喝には四つの喝があると説かれています。
岩波文庫『臨済録』から、入矢義高先生の現代語訳を参照しますと、
「師が僧に問うた、「ある時の一喝は金剛王宝剣のような凄味があり、ある時の一喝は獲物をねらう獅子のような威力があり、ある時の一喝はおびき寄せるはたらきをし、ある時の一喝は一喝のはたらきさえしない。お前それが分かるか」と。
僧はもたついた。師はすかさず一喝した。」
というものです。
この中で三番目の喝が探竿影草と表現されています。
これは岩波文庫の註釈には、
「漁夫の道具。竿の先端に鵜の羽をつけ、それを水中に浸けて魚をさそい寄せ、また刈りとった草を水中に沈めて魚を招き寄せる。」と書かれています。
禅文化研究所発行の『臨済録』にある山田無文老師の提唱を拝見してみましょう。
「金剛王宝剣の喝」について無文老師は、
「ある時の一喝は、正宗の名刀をひき抜いたようなものだ。
叢雲の剣を振り上げたようなものだ。
あらゆる煩悩、妄想、葛藤を何もかも断ち切っていくのである。
仏を殺し、祖を殺し、何もかもぶち切ってしまう。
鉄を切る、その金剛王宝剣に向かっては切れんものは何もない。
天地宇宙、何もかもぶち切ってしまう。煩悩も菩提も根こそぎ切ってしまう。そういう働きがあるのだ。」
と説かれています。
更に「有る時の一喝は、踞地金毛の師子の如し」については、
「獅子の中でとくに優れたものは黄金の毛色をしておるということであるが、その獅子が大地にうずくまって、今にも飛び出そうとしている勢いである。
ライオンがグワッと大地にうずくまって呼吸を止めて、これから飛び上がろうとウウーッと、獅子が威をふるって駆ける。
ある時の一喝は、そういった味わいがある。
「有る時の一喝は、探竿影草の如し」。これは、相手に探りを入れる一喝である。
こいつ何をしに出て来よったか、こいつは悟っておるか悟っておらんか、凡夫か仏かと、網を打つものが、まず竿で水の中の深いところを探ってみる。
あるいは、棒の先にエサをつけて、水の中へつけてみる。
魚がおるかおらんか、試してみる。
ある時の一喝は金剛王宝剣でもなく、踞地金毛の獅子でもなく、相手に探りを入れる一喝である。そういう一喝もある。分かるかな。
「有る時の一喝は、一喝の用を作さず」。いかにもつまらん一喝のようだが、そうではない。これがもっとも優れた一喝である。不作用の一喝、向上底だ。
うかがい知ることのできん、何ともはかることのできん一喝が、この不作用の一喝だ。最後の一喝だ。
どうだ、臨済、時どき喝を吐くが、おまえたちはぼんやり聞いておろうが、俺の一喝にもこういう予想のつかんやつがあるのだ。
どうじゃ、分かるかどうか。」
というものです。
六祖慧能禅師の言葉に、
「外、一切善悪の境界に於いて心念起らざるを名付けて坐と為し、内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す」
とあります。
外の一切の情報を断ち切るのが、金剛王宝剣の一喝であります。
外界の誘惑を断ち切るので、戒の心にも通じます。
内面に向けて自己の本性を見て、動じないのが禅であると書かれていますが、これは踞地金毛の獅子の喝であります。
これはじっと坐って自心を見つめる禅定の修行であります。
探竿影草のはたらきは、相手の様子を探るのですから、正しい判断、智慧を表わしています。
四番目の一喝の用を為さざるというのは、「喝」というのではなくて、朝なら「おはよう」、他にも「有難う」とか「ご機嫌いかが」とかいう思いやりの言葉であり、それは智慧からわいて出てくる慈悲のことだと受けとめたいのです。
そのようにみていくと、この四喝に仏道のすべてが込められていると言えます。
さて、江戸時代から明治の時代に蘆匡道という禅僧がいらっしゃいました。
神戸の聖福寺僧堂の師家であり、妙心寺や東福寺の管長もなさった方であります。
この老師は、大阪堺のお生まれで、十三歳で大阪高津の少林寺で出家しました。
岐阜の瑞龍寺僧堂などで修行して二十八歳で少林寺の住職になりました。
住職して間もない頃に、千葉不白居士の娘の葬儀を勤めました。
葬儀が終わった後に、千葉氏が、
「本日の引導の一喝は臨済の四喝のうちのどの一喝で、娘をどこに引導してくださったのですか」と尋ねました。
答えに窮したところ、千葉氏は、「あなたは自分の心が安らかではないのに、どうして人の心を安んじることができようか。あなたがその程度だと分かっていたならば、我が娘の葬儀をお願いしなかったのに」と激しく罵ったのでした。
そこで一念発起した匡道師、毎朝未明に寺を出て、三十キロほど離れたところにある八幡の円福寺僧堂まで歩いて参禅に通いました。
十年一日も休まずに参禅してとうとう四喝も明らかにして修行を成就したのでした。
公案の修行で四喝を調べるようになるには、十年ほどかかるものなのです。
三十八歳で神戸の聖福寺僧堂の師家に招かれ、更に妙心寺の管長、そして東福寺の管長にもなられたのでした。
有名な話が、今妙心寺には立派な石畳の参道がございますが、これは匡道老師が私財を投じて寄贈されたものです。
当時、雨が降れば参道がぬかるんで困ったそうで、老師が石畳を敷かれたとのことです。
今も修行僧は、老師に敬意を表して参道の隅を歩くことになっています。
横田南嶺