四つの場面を切り替える
四料揀といいます。
人は主観、境は客観であります。
互いの生活はこの人と境との入り組みにすぎません。
我と世界との入り組みしか、ありはしないのです。
自分と会社、自分と組織、自分と家族などなど、自分と外の世界との関わり合いが、いろいろ問題となるのです。
その我と世界との関係を臨済禅師は四つに分けられました。
奪人不奪境とは主体が無くなって客体になり切ることです。
自分を否定して相手になりきることです。
奪境不奪人とは客体が無くなって主体だけになることであります。
人境両倶奪とは主体も客体も倶に奪います。
我もまわりも共に無くなる世界です。
人境倶不奪とは主体と客体それぞれが自分の思い通りに振舞いつつ平和であることです。
我も人も共に活かす世界です。
僧堂の修行にも当てはめることができます。
僧堂に掛搭しますと、まず第一には奪人不奪境を経験します。
まず自己を完全に否定します。
最初の庭詰がそうなのです。
玄関に頭を下げ続けて、今まで学んだもの、積み上げてきたものをすべて奪います。
そして更に毎日毎日叱られ続けて、自己を完全に否定します。
これが僧堂の修行の大事な処です。
教育でも同じことかとおもいます。
はじめから好きにどうぞと言うと、わがままになるだけです。
まずは徹底して自己を否定します。
それだけでは、主体性の無い人間になってしまいます。
更に奪境不奪人です。
私自身僧堂に掛搭した頃老師から言われたことがあります。
「今は新到で、堂内の末単で、毎日毎日叱られ通しであろうが、いいか、禅堂の単布団に坐ったら、たとえ禅堂の隅っこで坐っていても、天下の主になったと思って坐れ、隅っこで小さくなって坐ったらいけない」と教えられて、大いに感動したことがございます。
たしかに、どんな新到であろうが、単布団にどん坐ったら天下の主です。
居眠りしたら警策で打たれますが、しっかり坐ってさえいれば、誰も指一本触れられはしません。
僧堂も無ければ、高単さんも役位もありません。天上天下唯我独尊の世界です。
しかしながら、そんなところにとどまっていては、鼻持ちならぬ禅僧になってしまいます。自由が効きません。
更に臘八の大摂心を通して、もう外の世界も我も無くなったところを体験するのです。
臘八の大摂心をやっていると、禅堂も外の世界もありはしない、坐っている自分すらいなくなってしまう、人境倶奪の世界です。
「我も無く人もなければ大虚空ただ一枚の姿なりけり」という和歌の通りです。
無字三昧の世界です。
これがあるから、禅堂は尊いのです。
そして、それで終わるのではありません。
最後には、人も境もともに生かす世界です。
僧堂でいえば、臘八もすませると、人も生かし我も楽しむ世界がございます。
何も否定しない、我も人も大いに生かし合うのです。
僧堂の修行にはこの四料揀がちゃんと具わっています。
僧堂を出てお寺に入っても、四料揀が大事であります。
まず新命で寺に入ったならば、第一には奪人不奪境であります。
我を殺し尽くさなければなりません。
お寺第一、住職がいらっしゃれば、和尚第一にして、我を微塵も出さずにゆく世界です。
しかし、人を奪うだけでは、主体性が無くなります。
時には和尚の代わりに法事の導師を勤める、葬儀の導師を勤めるとなったら、それこそ奪境不奪人です。
天にも地にも我独りの世界です。
それだけでもいけませんで、時には人境倶奪です。
我も世界もない、三昧の世界を持つことです。
坐禅が一番でしょうが、なかなか坐禅する時間を取れないとなると、草刈りなどの作務に没頭するのもひとつです。
それから、最後には我も生かし、人も生かしてゆく、お寺のことも大事に、和尚さん大事に、そして我も大事にしてお互いに語り合う世界が人境倶不奪であります。
こういう四つの場合があります。
その時々において今はどういう状況なのかを判断して主体的に切り替えてゆくのです。
和尚になって人を導いてゆくにも、この四料揀が大いに役立つのであります。
まず第一には奪人不奪境であります。
お寺に色んな悩み事を抱えて相談にきます。
すると、まず自分を殺して、相手を奪わないのです。
自分の意見も何も殺して、ただ相手の状況、どんな思いでいるのか、どんな風なのかをとことん聞いてあげます。
これが第一です。
まずお茶でも出してゆっくりと聞いてあげるのです。
さて、とことん聞いてあげたら、今度は奪境不奪人であります。相手を奪うのです。
それこそこちらが主体になって、それは妄想の世界であると、それは思い違いである、わがままな思いこみに過ぎないと、真理を堂々と説いてあげることです。
自己の思い込み、偏見、我見我慢によって自らが苦しみをつくり出しているのであると、それこそ、三界の大導師になって、お釈迦様の真理を説いてあげる、臨済の教えを説いてあげるのです。
その為にしっかり修行してお釈迦様の教えを学ぶのです。
そこにとどまっても、単なるお説教に終わってしまいます。
そこで第三に人境具奪であります。
では、ともに坐りましょう、坐ってお互いに、我も人もない、我も世界もない処に坐りましょうという、ここが禅の布教として大事な処であります。
この我も人もない、我も世界もない処に坐ってこそ、はじめ真のやすらぎが生まれます。
禅の安心はここです。
禅の布教は此処に導くことでなければなりません。
そうして、それに終わらずに、倶に坐って、坐禅が終わったならば、お茶を入れてさしあげて、ゆっくりとお互いに語り合い認め合う世界がございます。
人境倶不奪です。
我も生かし、相手も生かす、自由にお互いを論じ合う世界であります。
ここに茶禅一味の世界がありましょう。
こういう四通りの場面を使い分けてゆくのであります。
横田南嶺