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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.11.17
今日の言葉

無知から苦しみが生まれる

「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。」(728)

「およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執 (愛執)に縁って起こるのである。」(739)

これらは、仏教の基本の教えであります。

岩波文庫『ブッダのことば』にあります。

『スッタニパータ』の言葉です。

無明は無知であります。

十二因縁を学んだ時にも、無明から始まったのでした。

十二因縁を椎尾弁匡僧正は、次のように達意的に訳されています。

「分からずに(無明)流れ(行)を認め(識)るとき、そこには主観客観に対立(名色)が現れる。そこに外界(六処)ありとし、それを経験(触)する。そこに苦楽(受)ありて愛憎(愛)する。そこで取捨(取)し行為力(有)により今の存在(生)となって次に移る(老死)」というものです。

十二因縁を六つに縮めると

「無明、愛、取、有、生、老死」ということになります。

無知によって、渇愛という根源的欲望が起こり、対象に対して執着してしまい、迷いの存在となって、また新たに生まれては、苦しむということを繰り返すのです。
無知によって愛着を起こすのです。

先日、この無知によって愛着、執着を起こすというところがわかりにくいという質問を受けていろいろと説明していました。

『ダライ・ラマの仏教入門』には、

ダライ・ラマ猊下が

「自らの「欲望」や「怒り」を吟味するとき、それらが自己を非常に固定したものとして考えることから生じていることに気がつきます。

その固定化によって、自他の間に強い線引きが行なわれ、ついには、一方に愛着を感じ、他方に怒りをおぼえるようになるのです。

このように「欲望」と「怒り」は自分の「我」を過大視することを基礎にしています。」

と説かれています。

自己を固定したものとして考えるというのはどういうことかというと、

「確かに、世俗的な意味で「私」ー行為の主体、すなわち、業を積む主体としての自己ーというものが存在することは否定できません。」

現実にこの自己があるように私たちは感じています。

「そして、この「私」がこれらの業の結果として苦その他もろもろの結果を引き受けているのです。

しかし、「私」が苦を引き起こすに至ったとき、心の把握のしかたを検討してみると、私たちは実際に存在しているものー「心身を構成する五つの集まり」(五蘊)のうえに名付けられたもの以上の、実体的な「私」を認めていることが分かります。

この「私」が心に現われるとき、それは「心身を構成する五つの集まり」(五蘊)に依存して単に名前が付けられたものとは見えずに、あたかも、それ自身独立した実体をもっているかのように見えるのです。」

ということになってしまいます。

ここが大事なところで、五つの構成要素、肉体と感受と表象と意志と認識があって、その五つの構成要素によって、仮に名前がつけられたものが、自己に過ぎないのです。

しかし、この「自己」というのは、他のものに依存しないで独立して存在しているように思ってしまいます。

これが「無知」「無明」なのであります。

真実は「ある特定の要素の集合体に基づいて名前が付けられているもの以外には「私」は存在していない」のであります。

無知にはいろいろあります。

ダライ・ラマ猊下は

「たとえば、実際には無常であるものが、あたかも常住であるかのように見えることがあります。

また、実際には苦しみの源となっているものが一見すると快楽の源と見えることもあります。

これが、事物の真実のあり方とその現われ方の間にある対立です。

究極の真実について言うならば、対象は実体として存在しているように見えるものの、実際にはそのような実体性はないのです。」

ということが真理なのです。

そこで、

「したがって、対象が実体として存在していると思い込む無知は、欲望と怒りの両方を助長するものなのです。」となるのです。

あらゆる苦しみの原因は無知であることになります。

「無知 (無明)は他の煩悩の根本となります。

この無知の意識は、もろもろの事物が縁起しているという実相に関して蒙昧なのです。」

ということなのです。

無明、無知というのは、単に知識が乏しいという意味ではありません。

対象が実体として存在していると思い込む無知であり、自己というのは幻に過ぎないのに実在していると思い込む無知なのです。

『維摩経』に「癡より愛有り、すなわち我が病生ず」という言葉があります。

癡とは、無明無知であり、愚かさです。

正しい道理が分からない愚かな心の状態であるために、外の世界のものに愛着を起こして、それが病となってしまうのです。

愛着は、苦しみや病の原因であります。

その愛着の原因は、無常無我であるという道理を知らない無知なのです。

その苦しみを無くす道を説いたのがもともとの仏教でしたが、大乗仏教になると大きく変わってきました。

『維摩経』には、

「一切衆生の病むをもって、この故に我病む」と維摩居士は述べています。

そのように病の原因を知っていながら、維摩は病を治そうとはせずに、あえて自分も病んでいるのです。

それはなぜかというと、世間の人々が、愚かさの故に愛着を起こし、病となって迷いの世界で苦しんでいるのを見ながら、自分一人だけ悟って知らぬ顔はできないというのです。

維摩の病は、世間の人達が苦しんでいるのを見て、共に苦しみ、痛みを共にしようという病であり、それはすなわち大慈悲の心であったのです。

 
横田南嶺

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