教えないという教育
すばらしい宮大工になるためには、小さな変化に気がつくことが出来るようになるのが大事だというのでした。
わずかの違いが分かるということはとても大事なことであります。
少しの変化に気がつけないと、五重塔は建たないというのです。
同じことをしていても昨日と今日とのわずかな違いに気がつくかどうかということは大事であります。
わずかな変化に気がつくからこそ、進歩もするものです。
坐禅でも同じであります。
なんとなく昨日と同じように坐っているようではよくありません。
今日の坐禅はもう昨日の坐禅とは違うのであります。
体調もそうでしょう。
わずかな変化に気がつくことができれば、体調も壊すことは少ないでしょう。
組織でも同じなのです。
わずかな変化に気がつくことができるかどうかが、大きな鍵であります。
そしてその少しの変化というのは、言葉では伝えられないというのです。
そこで小川さんは、教えないのだというのです。
小池さんは、いいことを教えてくださいました。
教えないということは、待つことなのだというのです。
気がつくまで待つということであります。
これはとても重要なことであります。
私たちが毎日行っている公案の修行、禅問答などというのは、全く教えないのです。
師家というのは、公案については何も教えることをしません。
一言半句も教えないのです。
ただただ、修行僧が気がついてくるのを待っているのであります。
これが待てなくて、つい言葉をかけてあげてしまうと、これは親切のようで、かえって相手の可能性を損なうことになってしまうのです。
そしてそのわずかな違いに気がつくようになるには、無駄なことをさせるというのもなるほどと思いました。
無駄なことを繰り返すのです。
これもまた修行に通じます。
修行というのは毎日毎日無駄の繰り返しであります。
無駄なことをさせないと、何が無駄か分からなくなるというのであります。
しかし問題は、へたをすると待つことは大事ですが、何も学ばないで終わる場合もありましょう。
また小川さんの場合、そうした職人さんたちの共同体、生活の場がとても大事な役割を果たしていると言えます。
小川さんは、弟子達を住み込みで修行されていると聞いています。
通いでは駄目だという信念なのです。
共に暮らしていると、その生活の場から学ぶことがあるものです。
小川さんの刃物を研いでいる姿、かんなを掛ける姿勢、などなど一緒にいると学ぶことはたくさんありましょう。
日常の何気ない仕草などからも学ぶことがありましょう。
教えないといいながらも、実は日常の至るところで教えているということもできます。
ただこういう方法は、小川さんのようによほど優れた師匠と、学ぼうというやる気に満ちた弟子との関係の上に成り立つものだと思います。
教えないで待つことだというのに安住してしまうと指導する方は単に楽をしてしまいますし、弟子の方もただ怠けてしまいがちになるでしょう。
思い出したのだが、龍潭崇信禅師のお若い頃の問答です。
天皇道吾禅師のもとで修行していたのですが、禅師は何も教えてくれません。
思いあまって若き日の龍潭禅師は、入門してからなぜ禅の教えについてなにも教えてくれないのですかと問いました。
すると天皇禅師は、私はあなたがここに来てからというもの、禅の教えについて教えない日はないと答えました。
何のことか分からない龍潭禅師は、どこで何を教えてくれたというのですかと聞くと、天皇禅師は、あなたがお茶を持ってきてくれれば私はそのお茶をいただいているし、食事を作ってくれれば有り難くいただいているし、あなたが合掌すれば私は頭を下げているし、 禅の教えを示していないところはないと答えました。
このことに気がつかずに、どこに禅の教えがあるのかと探したりしたらもうすれ違ってしまうと言ったのでした。
禅の修行というと、なにかしら特別なことがあるように思われますが、なにも不思議なことはないのです。
お茶をいただく、ご飯を炊いていただく、掃除をするという日常の営みが悉く仏道なのであります。
それにはやはり共同生活が大切なのです。
小川さんもお弟子さんにご飯の支度をさせたり、掃除をさせたりすることから始めているようなのです。
ご飯の支度をするというと、いろいろと段取りを考えないといけません。
特に修行道場の場合は、時間が厳密に定められているので、時間通りに支度するには、工夫しないといけません。
おうちゃくして作ろうとすればいくらでも手を抜けますが、これは結局うまくゆかなくなります。
また一粒のお米も、わずかの菜っ葉も無駄にしないように、活かして使おうとすると、これはとてもたいへんな修行であります。
一杯のお茶を入れるにしても、心込めて湯の温度なども考えて入れるのと、ただ無造作に入れるのとでは、天と地の隔たりがあります。
そうかといって、心がこもっていないとしても、こんなお茶では駄目だと言ってしまうのではうまくゆきません。
ずっと本人の心が変わってきて、お茶が変わってくるのを待つのであります。
お茶一杯でも自分で工夫してこないと何もなりません。
これを温度が何度などと説明して教えてもなにもならないのです。
それから待つことで一番大事なのは、信じて待つことなのです。
きっと気がついてくれると信じて待つのです。
そんなことを考えていると、教えるということは、実にたいへんな道であると改めて実感したのであります。
横田南嶺