四種類の人
親が宗教活動にのめり込んでしまって、育児放棄をしてしまうこともあるというのです。
まだ意思表示ができない幼い子供を、特定の宗教に入信させられるのです。
親から特定の宗教の非常識な教義を押し付けられて苦しんでいるのであります。
生まれたのが、そのような環境であれば、苦しむのも道理であります。
お釈迦さまは、コーサラ国の王に、世の中には四種類の人がいると説いています。
増谷文雄先生の『阿含経典による 仏教の根本聖典』の訳を参照します。
「大王よ、世には四種の人がある。四種の人とは、どのような人であろうか。 それは、闇より闇におもむく者、闇より光におもむくもの、光より闇におもむく者、および、光より光へとおもむく人である。」
というのです。
具体的には、
「闇より闇におもむく者とは、どのような人であろうか。
大王よ、ここに一人の人があって、卑しい家に生まれ、貧しい生活をいとなみ、しかも、身に悪しき行ないをなし、語に悪しき行ないをなし、また意に悪しき行ないをなすならば、いかがであろうか。 彼は死して後は悪しき処におもむくであろう。 大王よ、闇より闇におもむく者というのは、かかる人をたとえて言うのである。」
「また大王よ、闇より光におもむく者とは、いかなる人であろうか。
大王よ、ここに一人の人があって、卑しい家に生まれ、貧しい生活をいとなんでいるが、しかも彼は身においても、語においても、意においても、善き行ないをなしたとせば、いかがであろうか。
彼は、死して後には、善き処に生まれるであらう。大王よ、闇より光におもむく者というのは、かかる人をいう」
というのです。
また更に「光より闇におもむく者というのは、いかなる人であろうか。
大王よ、ここに一人の人があって、高貴なる家に生まれ、富みかつ幸いなる生活をいとなみながら、しかも彼は、身において、語において、また意においても、悪しき行ないをなしたならば、いかがであろうか。
彼は死しての後は悪しき処に行かねばならぬ」
というのです。
そして、「さらにまた、大王よ、光より光におもむく人というのは、いかなる人のことであろうか。
大王よ、ここに一人の人があって、高貴なる家に生まれ、富みかつ幸いなる生活をいとなみ、しかも彼は、身にも、語にも、また意にも、善き行ないをなしたならば、いかがであろうか。彼は、死しての後はまた善き処に生を受けるであろう。」
というのであります。
過酷な環境にあっても人は、そこから光に転じることも可能なのであります。
お釈迦さまは、『スッタニパータ』一四二に
「生れによって賤しい人となるのではない。
生れによってバラモンとなるのでもない。
行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」
と説かれています。
そしてその行為のもととなるのは、人の思い、心であります。
『ダンマパダ』の始めに、
「1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がそのからだから離れないように。」
とある通りなのです。
以前に澤木興道老師の生い立ちについて書いたことがありましたが、澤木老師は三重県津市の浄土真宗高田派の御本山のある近くで、四人兄弟の末っ子としてお生まれになり、五歳で母を、八歳で父を亡くされ、父方の叔母のところへあずけられました。
その叔父もその年に亡くなられ、次に貰ってもらったのが遊郭街の裏町にある澤木家でありました。
表向きは「提灯屋」であるが、実際は博徒の巣窟だったといいます。
養父母ともに酒と博打に明け暮れ、澤木少年は習いおぼえた提灯の張りかえをして、この養父母を養うという毎日であったというのであります。
そんな過酷な環境の中でも、道を求める心を起こして十七歳で家出をし、生米二升を噛み噛み、歩いて永平寺に向かい出家を目指したのでした。
澤木老師などは、闇から光へと転じたのであります。
『ダンマパダ』の165番に
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。 」
という言葉があります。
仏教では、「無我」ということを説いています。
「無常」と共に「無我」はお釈迦さまの教えの中核でもあります。
無我というのは、固定した我はないということです。
常に変わることがない実体はないというのは、考えようによって、いかようにも変わることができると解釈することもできます。
生まれによって、ずっと固定されたままということはないということでもあります。
お釈迦様の時代は、生まれによって、カーストが定められていたのでした。
固定した自我があり、絶対の神によって、定められたものは変わらないという考えがもとになっていたのでありました。
しかし、そのような固定した実体は無いのだと説いたのが「無我」説なのです。
固定した自我はない、つねに変化するという「無我」説は、救いともなるのです。
横田南嶺