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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.11.11
今日の言葉

白木でよいか

馬祖道一禅師は、「平常心」を説かれました。

これは、一切の作為や造作がなく、是も非もなく、ただありのままの心です。

それを更に臨済禅師は、「無事」と説かれました。

臨済禅師は、外に求める心がやんだのが無事だと説かれました。

無事を、入矢義高先生の『禅語辞典』で調べてみると、

① なすべきことは何もない。また、人為の入りこみようもない平穏静謡な世界のありよう。

② 「さあ、もう用はない。」上堂説法のしめくくりにいう言葉。

③よせば良いのに。わざわざ。

という意味が書かれています。

『禅学大辞典』にはもっと詳細に

①問題がない。用事がない。日常挨拶の語。

②寂静無為の境涯・本来の自己に立ち還った安らかさ。

という解説があります。

さらに「無事界裡」という言葉の説明には

「求むべき悟もなく、行ずべき道もないと考える、あやまったさとりの境界。」

という解説があるのです。

もっとも②には、任運無作の絶対の境界という意味も挙げられています。

「無事是れ貴人」は、臨済義玄の言葉として、

「無事は無為のこと。無為とは、「平常心是道」というありかたで、一切の造作を排して無心に道に合すること。」と解説されていてこれは良い意味であります。

しかしながら「無事禅」というと

「悟りを求めることなく、また省悟のない修行をする禅。

看話禅の立場から、黙照禅を称して無事禅、枯木死灰禅などと蔑称した。」と

いうように悪い意味で使われています。

『禅語辞典』にも

「無事の会」とは、「仏法は修むべきなく証すべきなし(馬祖や臨済の常套語) と思いこんで、何もしなくてよいと収まりかえっていること。

宋の大慧はこれを「無事甲裏に坐在す」(無事という楼閣の中でアグラをかく)と呼んだ。」と説かれています。

また「無事禅」とは、「なすべきことは何もないと収まりかえった「平常無事」の教条禅。」と説かれていて、これらは良い意味ではありません。

馬祖禅師や臨済禅師の説かれた「平常無事」という言葉は、後に批判される言葉となっていったのです。

同じようなことが、日本において「不生」という言葉で起こっています。

不生は、盤珪禅師が生涯にわたって説き続けられた言葉であります。

小川隆先生は『禅思想史講義』の中で、一〇二ページに次のように説いて下さっています。

以下引用させていただきます。

「盤珪は「不生の仏心」ということをしきりに説きました。

「不生」というのは後天的に新たに生み出されたものでなく、もともと具わっているものだということです。

親から生みつけてもらったものは、この「不生の仏心」ただひとつ。

それにさえ目覚めておれば、寝れば「仏心」で寝、起きれば「仏心」で起き、歩くも坐るも、しゃべるも黙るも、飯を食うのも服を着るのも、みな「仏心」での営みにほかならない。

さすれば、へいぜいより自らが「活き仏」なのであって、いついかなる時も、自ら「仏」でない時がない。

ことさら「仏」になろうと励んだり、修行中の居眠りを叩いたり叱ったりするのは、とんだ見当ちがい。わざわざ「仏」になろうとするよりも、「仏」でいるほうが、面倒がなくて、近道でござる。

盤珪はいつもそんなふうに説いていました。」

というものです。

不生というのは、馬祖臨済の説かれた「平常無事」に通じます。
そのものといっても良いでしょう。

しかし、この「不生」が「不生禅」となると悪い意味で批判されるようになってゆくのです。

白隠禅師の『壁生草』にこんな言葉があります。

禅文化研究所発行の『壁生草』から、芳澤勝弘先生の現代語訳を引用します。

「老師はいつも枯坐不生の邪禅をこの上なく憎んで、罵倒して来られました。

これまでずっとこのように罵倒し続けて来られたのなら、批判された人々は、老師を冤敵のように思い、いずれそのうちにきっと、言われもないのに災いをもたらし、

あれこれ計略をめぐらして、老師を誹謗するでしょう。そうなれば、仏法のために大いに害あることになります。

どうか老師、そのことをお考えいただいて、不生禅や黙照禅のやからは放っておいて、一顧もされない方がよろしゅうございましょう。」

とある人が白隠禅師に箴言したというのです。

それほどまでに白隠禅師は、不生禅を嫌っていたのでした。

また同じ『壁生草』には、

「松蔭寺の先住、透鱗和尚の如きは、まさに今時の不生の立ち枯れ禅であった。

少しの世念もないから、世間のことは何も御存知なかった。

ひたすら、山賤の白木の椀そのままに、漆つけねば剥げ色も無しだ、その身そのままが仏なのだと言って、一切万縁を顧みない人であった。

そういうことだから、松蔭寺は貧窮の極に達し、屋根は漏り、床は腐るということになってしまったのだ。」

と書かれていて、不生禅をやっていたから、なにも出来ずに寺が貧しくたいへんな状況になったというのです。

白隠禅師にとって「不生禅」は、目の敵、罵り続けています。

「山賤の白木の椀そのままに、漆つけねば剥げ色も無しだ」というのは、

「山賤 (やまがつ) が 白木の合子(ごうし) そのままに
漆つけねばはげ色もなし」

という和歌のことです。

「やまがつ」とは

「猟師・きこりなど、山中に住む賤しい身分の人。」をいいます。

「合子」とは、「身と蓋とから成る小さい容器。蓋物・香合の類。」のことです。

和歌は、山仕事をしている木こりや猟師が、 ふだん使っている粗末な白木の弁当箱は、漆が塗ってないので、 色がはげ落ちることがないという意味です。

そこから「お互いにお唱えする念仏も、飾り気のない心でお唱えする」ということをいっています。

実に「白木の念仏」というのは「雑念をまじえない他力の念仏。」のことなのです。

この和歌は浄土宗の法然上人のお弟子で西山 (せいざん) 證空 (しょうくう) 上人の作であります。

白木の念仏とは、阿弥陀仏の本願にもとづいて純粋に称える念仏に譬えて、逆に彩色を施すことは、無駄にこれに付け加えられてゆく自力根性に譬えています。

同じ言葉でも高次の教えを表わすのに使われたり、また譏る言葉としても使われるのです。

言葉にとらわれないで、何が本質か、その言葉を通して見て取ることが大事であります。

 
横田南嶺

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