忘れるほど幸せに
YouTubeの養寿寺さまの法話の中であります。
そこで前野隆司先生の『記憶 脳は「忘れる」ほど「幸福」になれる!』という本を求めて読んでいます。
二〇〇九年ビジネス社の本であります。
その中に荘子の話が出ていました。
荘子が妻を亡くした時の話なのです。
「鼓盆」という言葉がありますが、この言葉のもとになるものです。
「鼓盆」というのは、『広辞苑』には、
「[荘子(至楽)「荘子の妻死す。…盆を鼓して歌う」]
(中国で「盆」は酒・水を盛る瓦器、「鼓」は鳴らすこと。
妻が死んだ時、荘子が両足を投げ出し盆をたたいて歌を歌った故事から)妻に死にわかれること。」
と解説されています。
「鼓盆而歌」「盆を鼓して歌う」という四字熟語もあるのです。
『漢和辞典』には、
「平たいはちをたたいて歌う。
荘子が妻を失ったとき、大きな平たいはちをたたいて歌った故事。
その故事は、生きることは必ずしも喜ぶべきことではない、死ぬことは必ずしも悲しむべきことではないという思想をあらわす。」
と書かれています。
ではもととなる話を、講談社学術文庫『荘子』にある池田知久先生の訳を引用させてもらいます。
「荘子(道家の思想家、本書の作者)の妻が死んだ。
恵子(名家の思想家)が弔問に出かけて行ったところ、荘子は折しも両足を投げ出してだらしなく坐り、盆を叩いて歌っている。
驚いた恵子が、「夫婦となって連れ添い、一緒に子供を育て、年を重ねた仲だろう。
死んで哭泣しないというだけでも非礼なのに、その上盆を叩いて歌うとは、ひどすぎるのではないかね。」
荘子、「いや、そうではない。これが死んだ当座は、私だって胸にぐっと来ないではおれなかった。
しかし、気を取り直して、これの始まりというものをつらつら考えてみると、もともと生命はなかった。
いや、生命がなかったばかりではない、もともと身体もなかった。
いや、身体がなかっただけではない、もともと気(身体を形作る元素)すらなかったのだよ。
もともとは何か暗々ぼんやりとした得体の知れない物の中に、一切が混じりあっていたのだが、そこに変化が起こってこれの気が生まれ、気に変化が起こってこれの身体が生まれ、身体に変化が起こってこれの生命が生まれた。
そして、今またこれに変化が起こって死に赴いたというわけだ。
これらは春夏秋冬の四季の運りと同じことを、互いに繰り返しているだけのこと。
この人が宇宙という巨大な部屋ですやすやと眠ろうとしている、ちょうどその時、私がとりすがっておんおんと哭泣の葬礼を行うというのでは、我ながら命(世界の必然律)に暗いことだと思われて、それで止めてしまったのだよ。」
というのであります。
この話を紹介して前野先生は、ご著書のなかで、
「このように考えた後は、もはや悲しまずに平然としていたというのだ。
私たち凡人は、なかなか荘子のような心境にはなれないかもしれない。しかし、言いたいことはよくわかる。
人間の身体も心も、宇宙に存在する物質の一部から成り立っているもの以外の何ものでもない。
たまたま、長い進化の結果として、人間という種ができ、その中の一人として荘子の妻が生まれ、その頭の中には荘子の妻の脳が生まれたにすぎない。
脳は、心という複雑な情報処理を作り出しているものの、生まれ、老い、死んでいった後には人間の身体も脳も単なる物質になり、焼かれれば酸化して灰となるにすぎない。」
と書かれています。
そして更に前野先生は
「私自身も、そのような境地を理解できる。
というのです。
それは、
「したがって、荘子と同様、親類や友人の死は、もちろんものすごく悲しいが、いくばくかの時間を経れば乗り越えることができる。
もっと言えば、私は、私自身が今すぐ死ぬことだって受け入れることができる。右と同じ理由だ。
もちろん、可能なら長く生きたいが、じたばたしたって、誰も皆病気になるし、いつか死ぬのだから、それはそれでしょうがないし、私はこれまでの人生に満足しているので、もはや何も後悔することはない。」
と書かれていました。
そこで記憶について、
「人生の前半には記憶が重要なのに対し、後半はあらゆることの内部モデルにより行動できるようになり、無意識化していくことが重要だとすると、究極の無意識化は死だ。
仏教の悟りの境地が入滅だというのも、私にはとても納得できる。」
と考察されています。
そして更に次のように説かれて、忘れることの重要を述べておられます。
「不幸、すなわち、いやなことによるストレスやわだかまり、ネガティブな感情が心を支配していては、幸福感は得られない。
このため、まずは、様々な不幸を心から取り除くことが必要だ。そして、そのための一つの方法は忘れることだ。」
というのです。
たしかに記憶がなければ、その人自身は幸せなのかもしれません。
しかし、実際には記憶がないと、この現実の世の中を生きることが難しくなります。
やはり記憶があっても、それにとらわれないというのが一番いいのでしょう。
無にするというのではなくて、あってもとらわれないということを「空」と表現するのだと思います。
横田南嶺