おおげさな話
『広辞苑』には、「大袈裟」として
①大きな袈裟。
②袈裟をかけたように肩から斜めに大きく斬りおろすこと。
という意味があり、
そして
③物事を実質以上に誇張していること。おおぎょう
と書かれています。
大げさなことというと、物事を実質以上に誇張していることを言いますが、元来は大きな袈裟のことでした。
袈裟は、僧侶のつける服を言います。
師匠から弟子へと教えを伝えることを、衣鉢を伝えるという言い方をします。
「衣鉢」は「えはつ」と読んで、『広辞苑』には
①仏教語として、三衣と一鉢。ともに僧侶の所持品。また、法をついだ証拠として師僧から弟子に伝える袈裟と鉢。
②一般に、宗教・芸術などで師から伝える奥義。また、前人の事業・行跡など。」
と解説されています。
更に『仏教辞典』で詳しくみてみると、
「三衣(さんね)と一鉢(いっぱつ)のことで、出家・受戒のときも、これを持つことが条件とされる。
禅宗では、『祖堂集』18に「衣鉢を授与し、伝えて六祖と為す」とあるように、弟子に法を伝える証拠としてこの法具を用いることから、教法・奥義を意味するようになった。
師匠と弟子の法の授受を<衣鉢を伝える><衣鉢を継ぐ>などと表現することから、転じて広く先人の事業・業績を継承することを<衣鉢を継ぐ>という。」
と解説されています。
ちなみに、「三衣」というのは、
「出家の比丘が個人所有を許されていた三種の衣。」のことです。
一つは僧伽梨、大衣といって、説法・托鉢・村落に赴く際に着用したところから、説法衣・乞食衣とも言われます。
正装の衣です。
それからもう一つは鬱多羅僧、上衣といって礼仏や説法の聴聞などに用いた普段の衣です。
そして安陀会は、内衣ともいって日常の作業や肌着用に用いられたものです。
『仏教辞典』に「衣鉢を授与して伝えて六祖と為す」とありますように、六祖慧能の話がよく知られています。
達磨大師から五代目の祖師が五祖弘忍禅師でした。
この五祖が、六代目となった慧能に法を伝えた証として衣鉢を授与したのでした。
当時の六祖というのは、まだ五祖のもとに来て数ヶ月しか経っていないし、出家もしていない青年だったのでした。
しかし、悟ったのです。
なにを悟ったのかというと、自己の本性を悟ったのです。
自己の本性はもとからそのままきれいなものであること、自己の本性はもとから生じもせず、滅びもせぬものであること、自己の本性はもとから完全なものであることに気がついたのです。
自己の本性を見ることを見性といいます。
五祖も
「自己の本心に気がつかねば、教えを学んでも役に立たぬ。もし言下に自己の本心がわかり、自己の本性を見届けるならば、そのまま仏と呼ばれる」といって、五祖は頓悟の教えと袈裟と鉄鉢とを授けて言いました。
「お前を六代目の祖師とする。あまねく迷える人々をたすけなさい。」と。
そして夜のうちに六祖は寺を出て行ったのでした。
明くる日から五祖はなにも説法をなされなくなりました。
不思議に思う弟子達が六祖がいなくなっているのに気がつきました。
そこであんな若僧に大事な衣鉢を持って行かれてなるものかと、皆で追いかけました。
恵明という人物が、まっ先に大庾嶺頂上まで来て六祖に追いつきました。
六祖は、恵明のやって来たのを見て衣鉢を石の上に置いて言いました。
「この衣は仏法の信を表してる、力で争うものではない、持って行きたいのなら持って行くがいい」と。
するとその衣鉢を持ち上げようとしても山のように動かないのです。
そこで恵明は言いました、「私は法を求めてきました。衣の為ではありません。どうか私の為に教えをお説き下さい」と。
すると六祖は「善も思わず、悪も思わないというまさにそのとき、どのようなのがあなたの本当の姿なのか」と問いました。
恵明はそこで迷いを破り悟りに達しました。
恵明は涙を流しながら礼拝して問いました。
「今お教えいただいた特別の教えのほかに何かさらに大事なものがありましょうか」と。
六祖は答えました。「今私があなたに示したのは、決して秘密の教えなどではありません。あなたがもしも自己の本来の面目に目覚めたならば、秘密などというものはあなた自身にあるものなのです」と。
無門関にも載せられている話なのであります。
このようにして衣鉢を伝えることを大事にしているのが禅宗であります。
円覚寺には、開山の仏光国師が伝えられた袈裟が残っています。
国の重要文化財に指定されています。
また近年の老師方の袈裟も大事に保管されています。
今年の円覚寺の開山忌の頃は、気候がとても良かったので、蔵から老師方の着られた袈裟を出して干してみました。
昭和の初年に円覚寺の管長を務め更に京都の大徳寺の管長になられた太田晦厳老師の袈裟がございます。
これが最近の袈裟の中では一番大きくそして重たいものです。
金糸を全面に使った素晴らしいお袈裟なのです。
気候も良いので、一度これを着て開山忌の導師を務めようと思ったのでした。
昔の老師の法衣を身につけるとそれだけで気持ちが引き締まります。
大きな袈裟なので、一人で着用することができず、京都の法衣店の方に来てもらって着用したのでした。
古い袈裟を着るだけでなんと大げさなと思われるかもしれませんが、これを着て開山忌の儀式を行って伝統の重さを感じる一日でありました。
横田南嶺