なまぐさ
『広辞苑』には、
「肉食をする僧。戒律を守らない僧。不品行の僧。世間僧。」
という意味が書かれています。
では「なまぐさい」とはどういうことかというと、
「①生魚や生血などのにおいがする。
②なんとなくにおいがある。また、ひどく異様なにおいがする。」
という意味なのです。
そこから
「僧として堕落している。また、俗っぽい。」という意味にも使われます。
「生臭料理」というと、
「生臭物を材料に使った料理。」であり、精進料理の反対であります。
では「精進料理」とは何かといえば
「精進物のみを用いた料理」のことです。
「精進物」とは何かというと、
「肉・魚介類を用いない植物性の食物。野菜類・穀類・海藻類・豆類・木の実・果実など」のことを言います。
逆に「生臭物」というと
「生臭いもの、すなわち魚鳥や獣類の肉の類」のことなのです。
僧侶はなまぐさを食べてはいけないと思われることが多いようです。
そこでなまぐさを食べていると「なまぐさ坊主」と呼ばれるのでありましょう。
もともとお釈迦さまの時代においては、肉食を完全に禁じられていたわけではなかったのでした。
托鉢で生活しているので、いただくものは基本的に何でもいただいていたのでした。
当然そこにはお肉やお魚も入っているのであります。
それを断ることも難しいし、いただいておいて食べないというのも考えものです。
そこで「三種浄肉」ならばよいと教えられていました。
三種浄肉とは「殺されるところを見ない、聞かない、類推できない肉」のことを言います。
自分の為に殺されるところ見た肉はいけない、そんな話を聞いた肉はいけない、そのように想像される肉はいけないとして、そうでなければいただくことができたのでした。
今でも南方のお坊さんは、いただいたお肉は食べていいのであります。
この点は、今の私たちの修行道場の決まりに似ているのです。
修行道場では、肉魚をいただくことはありません。
自分たちで料理しますから、殺生になりますのでいたしません。
しかし、よそに出掛けていただくお肉はかまわないという決まりなのです。
おそらくはこれはお釈迦さまの頃からの基本精神なのだと思います。
肉食の問題は難しいものです。
『仏教辞典』には、「肉食忌避の淵源については、正統バラモン(婆羅門)のヴェーダの流れに求めるものと、非正統派の苦行者・遊行者沙門の系譜に求めるものの二つの説がある」と解説されています。
仏教は沙門の系統なのです。
もともとお釈迦さまの教えでは、三種の浄肉ならば許可されていたのですが、「森林(阿蘭若)で瞑想修行する比丘に限って肉食が全面的に禁止されることがあった」と『仏教辞典』には書かれています。
そして「阿蘭若型の仏教と関係の深い涅槃経、楞伽経などの一部大乗経典においては全面的な肉食禁止が謳われたが、こうした経典類は後に東アジアに広く流布したため、それらの諸地域において肉食の拒否は戒律の中心となった」というのです。
特に大乗仏教において肉食を禁止するようになっていったのでした。
東アジア仏教徒における肉食忌避はここに由来します。
それには「インドにおけるカースト制度の強化とそれに伴う世俗社会一般での肉食不浄思想の流布というきわめて特殊な社会文化的な要素が存在する」というのです。
カーストという差別の思想が深く関わって肉食は汚れだと考えられるようになったというのです。
そし今日では「インドの特殊な社会的制約を離れ、東アジアにおける出家仏教の旗印の一つとなった」のです。
たしかに『梵網経』に説かれる四十八の戒の第三番に食肉戒(じきにくかい)があり、肉を食べてはならないと説かれています。
肉を食せば大慈悲の仏性の種子を断じ、無量の罪を得るというのです。
その次には第四に、食五辛戒といってニンニク・ネギの類を食べてはならないことになっています。
日本における江戸時代までは、獣の肉を食べないという習慣があったのも、この仏教の肉食禁止と関連があると『仏教辞典』には書かれています。
仏教においては明治五年四月二十五日の太政官布告において「僧侶の肉食妻帯畜髪等勝手たるべき事」というのが契機となって、肉食については寛容になっていったのです。
しかし、これは決して単に堕落したと見るのではなくて、お釈迦さまの本来の教えにたち返って考えるべきだと思います。
お釈迦さまの教えとしてもっとも古く伝えているとされる『スッタニパータ』には「なまぐさ」という章があります。
岩波文庫の『ブッダのことば』から中村元先生の訳を引用します。
「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。
この世において欲望を制することなく、美味を貪り、不浄の(邪悪な)生活をまじえ、虚無論をいだき、不正の行いをなし、頑迷な人々、これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。
粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんびとにも与えない人々、これがなまぐさである。 肉食することがなまぐさいのではない。
怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の高慢、不良の徒と交わること、 これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。
この世で、性質が悪く、借金を踏み倒し、密告をし、法廷で偽証し、正義を装い、邪悪を犯す最も劣等な人々、これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。
この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。
これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、常に害をなすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆まにして地獄に落ちる、これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。」
と説かれています。
やはり単にお肉を食べないということだけの問題ではないのであります。
佐々木閑先生は、ご著書『ブッダ100の言葉』で
「「なまぐさ」というのは、怒り、慢心、強情、反抗、偽り、ねたみ、大言壮語、高慢ちき、不良との付き合いのことである。肉を食べることがなまぐさなのではない」と訳されています。
「怒り、慢心、強情、反抗、偽り、ねたみ、大言壮語、高慢ちき、不良との付き合い」から離れることこそを心がけるべきであります。
横田南嶺