一日暮らし
正受老人が生涯工夫された正念工夫をやさしく説かれた教えに、「一日暮し」というのがあります。
本文を紹介しながら解説してみます。
「或る人の咄に、吾れ世の人と云うに、『一日暮らしといふを工夫せしより、精神すこやかにして、又養生の要を得たり』と。」
ある人がいうには、自分は一日暮らしということを工夫してからは、精神が健やかになって、身体も健康になって養生ができるようになったというのです。
「如何となれば、一日は千年萬歳の初なれば、一日よく暮すほどのつとめをせば其の日過ぐるなり。」
どうしてかというと、一日というのは千年万年の始まりなので、初めの一日をよく暮らすようにしていると、その日は充実したものとなり、それは一生をよく暮らすことにつながるからというのです。
「それを翌日はどうしてかうしてと、又あひても無き事を苦にして、しかも翌日に呑まれ、其の日怠りがちなり。」
ところが人間というものは、とかく翌日のことを考えて、ああでもないこうでもないと、まだ先のことについて取り越し苦労をして、一日をむだに過ごしてしまい、その日のことを怠りがちになります。
「つひに朝夕に至れば、又翌日を工夫すれば、全體にもちこして、今日の無きものに思ふゆゑ、心氣を遠きにおろそかにしそろ也。」
明日もあるから今日はこれでいいだろう、という毎日が続いていってしまうと、今日の一日という意識もなくなってしまい、ついあてもない先のことを頼みとして、その日の自分自身を疎かにしてしまうのです。つまり緊張感がなくなってしまうのです。
「兎角翌日の事は命の程も覺束なしと云うものの、今日のすぎはひを粗末にせよと云ふではなし。今日一日暮す時の勤めをはげみつとむべし。」
明日やればいいと言っても、その明日があるかどうかは誰にも分からないのです。
人の命は、はかないものだからこそ、今日一日の生活はどうなってもいい、粗末にしていいということではなく、今日の一日を精一杯つとめむべきなのです。
「如何程の苦しみにても、一日と思へば堪へ易し。楽しみも亦、一日と思へばふけることもあるまじ」
どんなにつらいことでも、一日のことだと思えば耐えられるし、楽しみだって一日のことだと思えばそれに溺れることもないのです。
「愚かなる者の、親に孝行せぬも、長いと思ふ故也。」
おろか者が好き勝手なことをして親不孝をするのも、人生は長いからそのうち孝行すればいいなどと考え、つい甘え心をおこしてしまうからにほかなりません。
「一日一日を思へば退屈はあるまじ」
どんなことでも、今日一日が自分の生涯だという気持ちで過ごせば、無意味な時間を過ごすことなく、充実した一日を過ごすことができます。
退屈は仏教の言葉でもともとは「仏道修行の苦難・困難に負け、精進しようとする気持をなくすこと」なのです。
「一日一日とつとむれば百年千年もつとめやすし」
一日一日と思って一生懸命に生きれば、百年でも千年でも充実して過ごすことができます。
「何卒一生と思ふからに大そうなり」
これから先、長い一生のことだと思うから、荷が重くなってしまって大変なことになってしまうのです。
「一生とは永い事と思へど、後の事やら、翌日の事やら一年二年乃至百年千年の事やら、知る人あるまじ」
一生は長いものだと思いますが、これから先のことやら明日のことやら、一年、二年、また百年、千年先のことやら、わかる人はだれもいないのです。
「死を限りと思へば、一生にはだまされやすし。」
死ぬまでが一生であると思って、ついついなんとなく自分はまだ長く生きることができるような気持ちになっていると、一生という時の長さについのせられてしまって、だまされやすくなってしまうのです。
「一大事と申すは、今日只今の心也。」
これが大事な言葉です。
人生の中で一番大切なことは、今日ただいまの自分の心なのです。
「一大事」を『広辞苑』で調べると、「容易ならぬできごと。重大な事態・事件。」という意味があり、それと「仏がこの世に出現する目的である一切衆生を救済すること」という意味があります。
人生でもっとも大事なことを言います。
それは、立身出世することでもなく、財産を蓄えることでもなく、今日只今どんな心でいるかという一事なのです。
「それをおろそかにして翌日あることなし」
それをおろそかにしていては、翌日などというものはありません。今しかないのです。
今日をきちっと一生懸命に務めるように心がけなければ、明日という日も堕落した日になってしまいます。
今日一日をしっかりと務め、明日もまたそのような一日がくるようにしなければなりません。
「總ての人に、遠き事を思ひて謀ることあれども、的面の今を失うに心づかず」
世の中のすべての人にとって、先のことを考えてみることは、誰にもあることです。
午後の予定も考えて暮らしています。
明日の予定も立てて暮らしています。
しかし、大事なのは、今ここにある、この一刻の、この今の心です。
この今を、どう生きるか、どう暮らすかを考えている人は少ないというのです。
お互い生きているのは、この只今です。それ以外にはありません。
只今をどういう心で生きているかが一大事なのです。
今日只今を精いっぱい務めることにつきます。
「此の秋は水か風かは知らねどもその日のわざに田草とるなり。」という歌があります。
先のことはどうなるか分からないけれども今日の勤めに田んぼの草を取るのです。
今なすべきことを只今行うこと、これが正念工夫にほかなりません。
「さしあたることのみ思え今はただ帰らぬ昨日まだ来ぬ明日」という和歌もございます。
先行きの見えない不安な中でありますが、今日成すべきことをきちんと行ってゆく、過去や未来に心をとらわれないということは今も大切にすべきであります。
横田南嶺