正受老人のご命日に思う
今から三百一年前にお亡くなりになっています。
本日は長野県飯山市で正受老人の三百年大遠諱が行われることになっていて、私もお参りさせてもらうのであります。
正受庵はそれほど大きなお寺ではないので、参列の和尚も限られているのですが、私は昨年正受老人三百年遠諱記念の講演をさせてもらったご縁でお招きいただいているのです。
朝早く出掛けて、なんとか日帰りでお参りできるかと思っているところです。
正受老人といっても、あまり世間には知られていませんが、江戸時代の禅僧です。有名な白隠禅師のお師匠様であります。
白隠禅師は、江戸時代に生まれ、今日の臨済宗を中興された方です。
幼くして地獄の恐ろしさに目覚め、どうしたら地獄から免れることが出来るか、出家して修行し始めました。
いろいろと挫折しかけたこともありましたが、二十四才で大悟しました。
しかしながら、自分はそんな大きな悟りを得たのだという慢心を抱いてしまい、その鼻っ柱をへし折って、白隠禅師を更に大成せしめたのが正受老人であります。
正受老人は、戦国武将で有名な真田幸村の甥にあたると言われています。
様々な事情から信州飯山城に預けられ、松平侯のもとで育ちました。
出家して至道無難禅師の弟子になり、更に修行を積んでその将来を嘱望されますが、飯山に帰り母を養いながら更に研鑽を積み重ね、終生飯山の正受庵という小庵で、過ごされた方です。
禅僧にもいろんな個性がありますが、私は日本の禅僧の中では、これほど純粋な方はいないと思っています。
『正受老人崇行録』は、その正受老人のご生涯を綴り、さらに漢詩文などの語録をまとめたものです。円覚寺の今北洪川老師が編纂されています。
その中に、こんな正受老人の述懐が記されています。およその意を訳しますと、
「私は、十三才でこの禅の教えのあることを信じ、十六才で初めて自己本来の面目を見届け、十九才で出家し、至道無難禅師に随って、十数年にわたり厳しい指導を受けた。
その後、この山に隠れ住んで、ただひたすら仏道の実践に明け暮れた。
今もう七十才に近くなろうしているが、その間、世間の縁を断ちきって、専一に修行の暮らしを守りぬいてきて、ようやくこの五六年、正念工夫を真に相続することができるようになってきた」というのです。
原文は漢文ですが、漢文の厳しい口調と共にその内容には今拝読しても、身の引き締まる思いがします。
十三才の頃に、飯山城にある和尚が見えて、城中の子供達に、それぞれ守り本尊を書いてくださったそうです。
正受老人も皆と同じようにお願いしましたが、あなたには観音様が具わっていると言って、書いてもらえませんでした。
では自からに具わる観音様とはどんなものですかと聞くと、それは自分自身に問うことだとのみ言われました。
それから、自分なりに修行して、十六才で初めて自己に本来具わっている観音様に目覚めたのです。
そして、江戸に出て至道無難禅師の弟子になって更に修行を積みました。
しかしながら、その後は終生飯山の小庵に過ごされて、自ら孤高の生涯を貫かれました。
『正受老人崇行録』には、そのすさまじい修行ぶりを伝える逸話が記されています。
ある時に、村の人が山で狼の子をつかまえてきました。
ところがその狼の子が、犬に殺されてしまいました。
それからというもの、毎晩狼の群れが山から下りてきて、村を襲うようになりました。
家の垣根を壊し、中に入ってきて、あげくには人の子を襲うようにもなりました。
村人達は外に出ることもできずに、夕方からは戸を閉めて恐れおののいていました。
そんな話を聞いた正受老人は、墓場に行って毎晩坐禅しました。
七日間徹夜の坐禅を続けたのです。
もちろんのこと、狼の群れが襲ってきます。
坐禅している正受老人の臭いを嗅いだり、耳に息を吹きかけたりします。
しかし正受老人は、こういう時こそ自分の正念が失われていないか試す好機だとひたすら坐禅を続けて、七晩坐り抜いてからは、狼も村に来なくなったというのです。
少しでも、怖いなとか、嫌だなという余念を起こせば、その途端に噛み殺されたでしょう。
これが、まだお若い頃の修行時代のことならいざ知らず、なんと六十三才の時です。
如何に毎日真剣な修行生活を貫いておられたか、うかがい知ることができます。
この正受老人が、繰り返し大切に説かれているのが、正念工夫ということです。
そして、それを絶えず行うことを正念相続と申します。
正念とは、八正道の中にもあります「正しい念い」であります。
ただ禅では、八正道の一つという教理的なものというよりも、唯今目の前に取り組んでいることと常に一つに成りきって余念を交えない工夫であると受け止めています。
今を生きるとは、禅ではよく説かれる言葉です。
たしかに私たちが生きてるのは、この今しかありません。
しかし、心は常に、過去にとらわれたり、未来のことを想像してみたり、揺れ動いています。
今ここに集中して余念を交えないということは、言葉で言うのは簡単ですが、実践は容易ではありません。
まさしく正受老人も「正念工夫を真に相続している人は千万人の中に一人もいない」と慨嘆しているほどです。
正受老人のご命日を迎えて、自分の修行が正念怠りないか反省することしきりなのです。
正受庵にお参りすると、正受老人の叱声が聞こえてきそうであります。
横田南嶺