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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.10.05
今日の言葉

達磨大師のご命日

本日十月五日は達磨大師のご命日であります。

達磨大師についてははっきりしないことが多いのですが、およそ五世紀から六世紀にかけて活躍された方であります。

諸説ありますが、西暦五二八年十月五日に百五十歳でお亡くなりになったと伝えられています。

南インドの香至国の王子様としてお生まれになりました。

第三王子でありました。

あるときに香至国に、お釈迦さまから二十七代目の祖師である般若多羅尊者が訪れました。

ときに香至国の王様は尊者に、世に二つとない素晴らしい宝玉を献じました。

尊者はそれを受けて三人の王子たちに問いました。

これは素晴らしい玉であるが、この素晴らしさに及ぶようなものはこの世にあると思うかと。

長男の月浄多羅も次男の功徳多羅も、これは世に二つと無い素晴らしい宝玉です。
尊者のようなお方でなければ受け取ることもできません。

尊者こそお持ちになるに相応しいお方でありますと答えられました。

とても上手な答え方で、長男も次男もきっとそつなく世渡りすることができましょう。

さらに三男の菩提多羅に質問しました。

すると菩提多羅は、それは世間の宝に過ぎないものであって、真理の光にはとても及ぶものではありませんと答えました。

法という正しい真理こそが真の宝であると答えたのでした。

これは見所があると般若多羅尊者も思われました。

その後、香至国の王様がお亡くなりになってから、三男の菩提多羅は般若多羅尊者のお弟子になって修行に励まれました。

尊者がいよいよお亡くなりになるにあたって、自分の死後六十七年を過ぎたら、インドから中国にいって仏法を説けと遺言されました。

果たしてその通り、尊者のご遷化の後六十七年経ってはるばる海を渡って三年かけて達摩大師は中国にお見えになりました。

それが『碧巌録』によれば、普通元年といって西暦五百二十年のことだと言われています。

その頃の中国はというと、中国史における南北朝時代と言いまして、北魏が華北を統一した四三九年から始まり、隋が中国を再び統一する五八九年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期でありました。

その南朝に梁の国がございました。

北方が東魏と西魏とがあって、南は梁の国だったのです。

その梁の国を興したのが武帝でした。

武帝は五二〇年に普通と改元したのです。

それ以降は帰依する仏教教団に対しては寛容さが目立ち、また武帝自身も仏教への関心を強めました。

ついには大通元年(527年)以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与したりしました。

その結果、梁朝の財政は逼迫してしまいました。

武帝の仏教信仰は相当なもので、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩」とも称されたほどでした。

そんな武帝のところにインドから達磨大師が海を渡ってお見えになったのですから、心を込めてお迎えしました。

そして、自分はこの国において多くの寺を建てて、経典を写し、多くの僧侶に施しをしてきた。

いったいこの私にはどれほどの功徳があるでしょうかとお尋ねになりました。

武帝にしてみれば、達摩大師からお褒めの言葉をいただきたかったのでしょう。

しかし、達磨大師は、それは世間の功徳であって、迷いの種にしかならない、無功徳だと答えられました。

慌てた武帝は、それではこの上ない尊い真理とはどのようなものでしょうかと質問をしてみました。

すると達磨大師が「廓然無聖」と答えられました。

カラッとして晴れわたった空のように何もない、そんな聖なるものなどどこにもないと答えられました。

達磨大師の言葉を理解できない武帝は、いった私の前にいるあなたは誰ですかと尋ねました。

すると達磨大師は、一言「不識」「わしは知らぬ」と答えられたのでした。

そんな風に問答がかみ合いませんでしたので、達磨大師は揚子江を渡って魏の国にいたって、嵩山少林寺でひたすら壁に向かって坐り続けられました。

これが面壁九年と申します。

そこに後に二祖となる慧可が訪ねてくるのでした。

この慧可という人もすぐれたお方で、あらゆる書物を読み尽くしていたのですが、どうも自分で納得できるものが得られないと悩んでいました。

孔子や孟子の書物は結局礼楽の教えに過ぎない、老荘の思想もまだ奥深いところまでにはいたっていないと思われたのでした。

そこで最後の解決を得たいと思って達磨大師を訪ねました。

この慧可に教えを伝えて達磨大師はお亡くなりになったのでした。

お亡くなりになった後に、片方の靴を持って印度に帰っていったという伝説があります。

そんな達磨大師の姿を見たという人がいたものですから、お墓の中を調べてみると、なんと片方の靴だけが残っていて遺体は無かったという話です。

『洛陽伽藍記』という書物には、晩年に達磨大師が、永寧寺の伽藍の壮麗なる様子をご覧になって

「多くの国々をわたりあるいて、すでにいたらぬところはないが、これほどみごとな寺は、この地上には存在しない。

仏のくにを探しても、これほどのところはない」と、口に南無南無ととなえ、幾日も幾日も合掌しつづけたと書かれています。

梁の武帝には無功徳といいながらも、見事な伽藍に手を合わせて合掌なさる達磨大師のお姿も尊いものであります。

もっとも武帝との問答なども史実かどうかははっきりしません。

達磨大師の実際のお姿というのは謎なのであります。

ともあれ、達磨大師のことを想って本日の午前十時より法要を行うのであります。

 
横田南嶺

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