達磨さまは日本にやってきていた
いやその多くが伝説だといってもいいくらいなのです。
その中には、達磨大師が日本にやって来ていたという伝説もあります。
『元亨釈書』という虎関師錬が書いた30巻もの本があります。
そこには、日本に仏教伝来以後元亨2年(1322)までの四百人余の僧伝・仏教史を漢文体で記されています。
四百名ほどの僧の伝記があるのですが、その第一番が、なんと「南天竺の菩提達磨」なのであります。
『元亨釈書』には、
菩提達磨は、南印度香至王の第三の子なり、普通元年西暦五百二十年に志那に来たって、武帝のために第一義を説いたけれども武帝には理解されず、長江を渡って魏に入って少林寺で九年間過ごして、天竺に帰ったと書かれています。
簡潔な達磨伝ですが、そのあとなんと亡くなって八十六年後推古二十一年西暦六一三年に日本に来たと書かれています。
推古天皇の時、聖徳太子が政をあずかっていました。
聖徳太子が、奈良の片岡を通った時に、達磨大師は飢えた人の姿をして、ぼろを身に纏って道の傍らに伏していました。
眼光が鋭かったようです。
そしてその体はかぐわしかったと書かれています。
聖徳太子は、その様子をご覧になって名前を問いますが、達磨大師は答えませんでした。
聖徳太子は、和歌を作って問い、達磨大師も和歌で答えたといいます。
聖徳太子は飲食を与えて、ご自身の衣を脱いで「安らかにお眠りください」と言って宮中に帰りました。
その後人を使わして、その旅人の様子を見させましたが、すでにその飢えた旅人は死んでいました。
聖徳太子は嘆き悲しんで手厚く葬られました。
そして聖徳太子は、あの方は凡人ではない、必ず真人であっとして遣いをやって墓を確かめさせました。
すると棺の中にはなにもなく、聖徳太子が差し上げた衣だけはたたんで置かれていたのでした。
聖徳太子は、その衣を自ら身につけられたのでした。
人々は「聖は聖を知る」というのは本当だと思ったという話であります。
この葬られたところが後に達磨寺になったということであります。
時代が下がって鎌倉時代に「達磨宗」という一派がございました。
岩波書店の『仏教辞典』によれば、
大日能忍(だいにちのうにん)の禅宗」のことを言います。
「大日能忍は1189年(文治5)、弟子2人を中国に遣わし、臨済禅を学び帰らせ、それを<達磨宗>と称して日本に広めた」というのです。
「1194年(建久5)に、栄西の臨済禅とともに弘通(ぐずう)停止の訴えにあうが、法然の念仏と並んで盛んとなったことは、日蓮遺文(にちれんいぶん)の『開目抄』『教機時国鈔』『佐渡御書』などに紹介されている。」
と書かれています。
この能忍という人はどんな人かというと、同じく『仏教辞典』には、
「生没年未詳。平安末から鎌倉時代初期の僧。
日本達磨宗の祖。
博多の出身。摂津国(大阪府)水田に三宝寺を創立して禅を唱道したが、1189年(文治5)、弟子の練中と勝弁を宋につかわし、大慧宗杲の法嗣である拙菴徳光(せったんとくこう)(1144-1203)より印可を受けて帰らしめ、<達磨宗>と称して日本に広めた。
しかし、新風の南宗頓禅であったために、臨済宗の栄西とともに、1194年(建久5)、弘通(ぐずう)停止の訴えにあう。
能忍の弟子の仏地房覚晏は、大和(奈良県)の多武峰(とうのみね)に住して法を広めたが、覚晏の弟子の孤雲懐弉(えじょう)・覚禅懐鑑、懐鑑の弟子の徹通義介などは道元の門に入り、能忍の流れそのものは消失する。」
と書かれています。
では達磨宗の教えはどのようなものであったのか、これははっきりしていません。
ただ栄西禅師は、達磨宗の教えと自分の伝えた禅とが同じように布教を禁じられたことに悲憤慷慨しています。
『日本人のこころの言葉 栄西』にある現代語訳を引用させてもらいますと、
「この人は、禅の真の教えにとって悪影響を及ぼす以外、何ものでもありません。
仏の教えの中に、「空見」という空の教えを誤って解釈している者がいるといわれますが、これがその人です。
このような者と共に語り、席を同じくしてはなりません。百日歩いて進むほどの距離を遠ざけるべきです。」
と『興禅護国論』に書かれています。
達磨宗の教えとして
「我われは、菩提を得ているのだから、煩悩などは存在しない。
だから、戒律は必要ではないし、修行などすることもない。
ただ寝転がっていればよいのである」と書かれています。
大日房能忍の教えがまとめられたものがないのではっきりとしませんが、本来仏であることを強調して戒律まで否定していたところもあるようです。
この点は、本来仏であることを説きながらも、戒律を厳しく守り修行を大事にされた栄西禅師とは大いに異なるところです。
この達磨宗と同じように扱われて布教停止となったので、栄西禅師は耐えがたかったのだと思います。
その後栄西禅師は、鎌倉幕府の帰依を受けて、京都に建仁寺を建てたのでした。
達磨宗の主要な人たちは道元禅師の門下となっていったのでした。
日本に来ていたとも言われる達磨大師、その教えは、いろいろの紆余曲折を経ながら、臨済宗、曹洞宗として伝わって来たのでした。
横田南嶺