どうして真理を得られないのか
「中国甘粛省北西部の市。
古来、西域との交通の要衝。
市街の南東に4~14世紀の美しい壁画・塑像を持つ世界遺産の千仏洞(莫高窟)があり、20世紀初め以来その壁の中から貴重な文書・仏典等を発見。」
と書かれています。
禅学大辞典で詳しく調べてみると
「多くの訳経僧達が、この地を経て中国入りし、この地に極めて佛教的な雰囲気を醸しだし、千佛洞(莫高窟)に代表される、多くの石窟寺院を成立せしめ、独特の文化を発展せしめた。
二〇世紀、莫高窟に住して道教の布教に従事していた王道士によって発見された多くの文献・美術品・壁画などは、一九〇五年ロシアのオブルーチェフ探検隊、一九〇七年英国のスタイン探検隊、一九〇八年フランスのペリオ探検隊、一九一二年日本の大谷探検隊、一九一四年ロシアのオルデンブルグ探検隊等によって海外へ運び去られ、一部が清国の保護によって国内に残った。」
というものであります。
ここの敦煌から発見された文書の中に禅宗に関わるものもたくさんあったのでした。
そして達摩大師についても様々な発見がありました。
柳田聖山先生が筑摩書房『禅の語録1 達摩の語録』のなかで、
「敦煌発見の禅宗資料が、今まで知られていた伝統的な禅のイメージに比して、かなり意外な初期禅宗の実体を明らかにした」と説かれている通りなのです。
そんな敦煌資料の中に達磨の語録とされる『二入四行論』もあったのでした。
その冒頭に説かれている達摩大師の伝記が、現存最古の資料とされています。
それは、
「先生は、わが国の西方にあたる南インドの出身で、大バラモン国王の第三子であった。
透徹した知性をそなえ、何を聞いてもすべて通暁された。かねてから大乗の真理に一念をこめ、世俗の服を脱いで黒衣の修行者となり、聖なる伝統を承けついで盛んにし、心を限りなく静かな根底にひそめるとともに、あまねく世間のことを見通し、内外の学問をすべてあきらかにされて、その徳望は高く世の人をぬきんでた。さらに、海外のくにぐににおける仏教の衰えを遺憾とされて、はるかに海山を超え、わが漢魏の地に宣教においでになった。
素直な心のひとびとは、誰もみな帰依したが、形式にとらわれ主義主張にこだわるひとびとは、やがて悪しざまに非難しはじめた。
そのとき、道育と恵可というものがあり、この二人の修行者だけは、なおいまだ若輩ながら、すぐれて高邁な志をもち、先生にお遇いしたことを喜び、数年のあいだ弟子としてつかえ、つつましく指導をうけ、よく先生の精神を心に体した。
先生もかれらの誠意に感動し、真理の奥義を伝えられた。」(筑摩書房『禅の語録1 達摩の語録』より)
という実に簡潔なものであります。
先日の龍雲寺のダンマトークでは、私たちが伝統の世界で学んできた達磨大師のことをはじめにお話して、そのあと敦煌資料に基づく達摩大師のこと、そして二入四行について学んだのでした。
昨年の九月に龍雲寺でお話して以来、一年ぶりの龍雲寺さまでのダンマトークでありました。
お寺の本堂には、五十人ほどの方が集まってくださっていました。
龍雲寺さまの会に集う皆様はとても熱心な方ばかりで、話をするにも一層力がこもりました。
九十分熱心に聞いてくださって、有り難く感謝するばかりであります。
普段から坐禅会をはじめ熱心に教化活動をなさっているからこそのことであります。
その達摩の語録の中に、次のような興味深い問答があります。
こちらも筑摩書房『禅の語録1 達摩の語録』から柳田先生の現代語訳を参照します。
「世俗のひとびとは、さまざまに学問をしておりますが、どうして真理を得ないのですか」
という問いかけから始まっています。
それに対して達摩大師のお答えが、
「かれらは自己にとらわれているから、真理を得ぬのだ。
もし、自己にとらわれないことができるなら、すぐに真理をうるのだ。
自己とは我執(我があり、わがものがあるという観念) である。
聖人が苦難に際して悩まず、悦楽に処して溺れぬのは、自己にとらわれぬからである。
かれが、苦楽せぬわけは、自己を否定しているからだ、自然の自由(虚無)に至ることができると、自己すら否定するのである。
まして否定できぬ何物があろうか。」
という端的なお示しがございます。
自己にとらわれているから真理を得ることができないとは実によく言い得ています。
自己とは五蘊であります。
この五蘊を自己と認めて、実体のあるものと誤った認識をしてしまい、自分のものという観念を生み出し、たとえ学問をしたとしても、自己のものという執着が増えてしまうだけなのであります。
学問のみではありません。
修行にしても同じことが言えるのであります。
いくら長く修行しても自己にとらわれていると真理を得ることはできないのであります。
いや益々真理から遠ざかるのです。
自己にとらわれると訳しているのは原文では「己を見る」となっています。
この自己が迷い苦しみを起こすのであります。
その様子を達摩大師は
「自己なるものは、ほしいままに計らいを起して、すぐに現実の生老病死、憂悲苦悩、寒熱風雨などのあらゆる好ましからぬ事を感受しようとするが、これらはすべて妄想の現われであり、あたかも幻術師の変化のように、ゆくこともとどまることも、自分の思うに任せぬのだ。
なぜなら、かれらは自分の主観によって、やたらに対立を起して、ゆくことと、とどまることと(生死)を自由にすることができぬからである。
こうして、煩悩があるのは、自己にとらわれるからであり、それで、ゆくことと、とどまることがあるのである。」
というのであります。
我見を離れることは容易ではありません。
まずは自分自身が、如何に己にとらわれて執着しているのかということに気がつくことです。
横田南嶺