ダルマ・達摩・達磨
という歌が知られているように、だるまさんの名前は誰でも知っているものです。
起き上がり小法師という玩具もよく知られています。
しかしながら、そのだるまさんというのはどういう人なのかは、あまり知られていません。
もっとも、はっきり申し上げると、よく分かっていないのが実情なのです。
そんなだるまさんについて、世田谷区野沢にある龍雲寺様でお話させてもらいました。
龍雲寺のYouTubeチャンネルで、「達磨大師の教え」という動画で公開しています。
そこでは、歴史的人物としてのだるまさんを「ダルマ」として、1900年敦煌莫高窟で発見された敦煌資料に基づくだるまさんを「達摩」として、『景徳伝灯録』以降の禅宗の祖師として神格化されただるまさんを「達磨」として話をしました。
この敦煌資料によって明らかになった達摩大師と、今までの伝統で説かれた達磨大師とは異なるものだという主張がございます。
達摩伝を研究された関口真大先生は、
洛陽伽藍記に記された達摩大師の姿と、碧巌録などに記された達磨大師とは異なる人物像だと指摘されています。
それは洛陽伽藍記には、
そのころ、西域から来た菩提達磨という沙門がいた。ペルシア生まれの胡人である。
「遙かなる辺境の地より中国にたどりつき、塔の金盤が太陽にかがやき、光明が雲の各層にうつって、宝鐸が風になり、天空にこだまするのをみると、かれは聖歌を口ずさんでほめ、たしかに神わざだとたたえる。
みずからいうところ、年は百五十歳で、多くの国々をわたりあるいて、すでにいたらぬところはないが、これほどみごとな寺は、この地上には存在しない。
仏のくにを探しても、これほどのところはないと、口に南無南無ととなえ、幾日も幾日も合掌しつづける。」(人類の知的遺産16『ダルマ』柳田聖山より)
と書かれています。
それに対して、梁の武帝から、寺を造り僧を度する功徳を問われて、ただ一言「無功徳」と言ったわけでありますから、大いに異なるというのです。
たしかにそのような見方もできるかと思いますが、しかし、私などのように禅の修行をしてきた者の感覚では、この二つは相反することとも思えないです。
かの黄檗禅師は、仏について求めず、法について求めず、僧について求めずと言いながらも、ひたすら礼拝されていたという姿とも重なるのであります。
「能礼所礼性空寂」と唱えながらもひたすら礼拝するのが禅の修行なのであります。
能礼所礼性空寂とは礼拝する者も、礼拝される者もともにその本性は空であるという意味です。
その達磨大師の教えとして伝えられているのが二入四行なのであります。
とくに二入のはじめには「理入」ということが説かれています。
理入というのは筑摩書房『禅の語録1 達摩の語録』の訳によれば、
「原理的ないたり方」というものです。
まずよく道理を理解することなのです。
具体的には、「経典によって仏教の大意」を知ることです。
その理解すべき真理というのは、
「生きとし生けるものは、凡人も聖人もすべて平等な真実の本質を持っている」ことに外ならないのです。
ところが、私たちは「ただ外来的な妄念にさえぎられて、その本質を実現することができぬだけのことだ」というのです。
そこで「もしも、妄念を払って本来の真実にかえり、身心を統一して壁のように静かな状態にたもち、自分も他人も凡人も聖人も、ひとしく一なるところに、しっかりと安住して動かず、決して言葉による教えによらないならば、それこそ暗黙のうちに真理とぴったり一つになり、分別を加えるまでもなく、静かに落ちついて作為がなくなる」というのであります。
そして「これを原理的ないたり方と呼ぶ」と説かれています。
本来仏の心を持っていることに気がつくことを説いています。
この教えが達磨大師のお弟子の慧可大師にも受け継がれていて、
慧可大師もまた
「ひとびとの身体の中に、ダイヤモンドのようなブッダの本質が潜んでいる。
あたかもそれは太陽のように、それ自体が明るく完全に充実していて、限りもなく広く大きい。」と経典の言葉を引用して説かれています。
しかしながら
「ところが、われわれの精神を構成する五つの要素が、重なった雲のようにそれを覆いかくしているというただそれだけの理由で、ひとびとはそれに気づかぬのである。
だからもし、智恵の嵐が吹き払うとなると、五つの要素という重なった雲は消え尽き、ブッダの本質が完全に輝き、もえるばかり明るく浄らかになるのである」
と示されています。
また更に『華厳経』に説かれるところも用いて、その仏性についてどういうものかというと、
「ばかでかくて世界のひろがりに等しく、とことんまで天空のようである」というのです。
またその尊い仏心、仏性をマニ宝珠に喩えて、
「はじめはマニ宝珠を見失って、瓦のかけらだと思うものも、からりと自から目ざめてみると、すべて真にほかならぬ。
無知と智恵とは本質的に別ものではなく、さればこそあらゆる存在はすべてもとのままであると知られるのだ。
あの分別にとらわれている連中を気の毒に思うあまり、わたしは、言葉をつらね筆をとって、この文章をつくるのだ。
わが身がブッダと別でないことに気付くとき、謂うところのニルヴァーナなどをことさら求める必要がどこにあろうか。」
と説かれています。
これは『禅の語録2初期の禅史』にある二祖慧可大師の言葉です。
我々みな仏の本質、仏心、仏性を具えているということ、ただそのことに気がつかずに迷っているのだということは、達磨大師の頃から説かれていたことが分かります。
もっとも歴史上のダルマ大師のことは不明な部分が多く、後世になって達磨大師の教えとして受け継がれたものというべきでありましょう。
横田南嶺