共に坐ること
コロナ禍の間にも規模を縮小して行っていたのですが、私が参加するのは、三年ぶりであります。
その前は2019年の九月に大学に行って学生さん達と坐禅をしたのでした。
そのあと2020年と2021年とは、コロナ禍の為に参加出来なかったのでありました。
花園大学に、二百名の者が一緒に坐れる大きな禅堂がございます。
久しぶりにその坐禅堂で坐ったのでありました。
九月とはいえ、まだまだ蒸し熱く、汗が流れ落ちる中を坐禅してきました。
2019年にこの管長日記に書いた言葉が残っていまして、それは、今そのまま通じる思いでありますので、転載します。
はじめに、漢方医の桜井竜生先生と話をした折に、桜井先生が、
「死の怖れを克服する道として、死に対して動じることのない人と共にいることだ」と仰っていたことを紹介しています。
そして次のように書いています。
「怖れや不安というのは、言葉によって論理的に説明したりすることが困難です。
そして恐れ不安に対して安心を得られるのもまた言語によって説明するのは困難です。
共にいることによって、安らかになるというようなこともまた、言葉によって表現しがたいものです。
私なども、もうかれこれ二十年僧堂の師家という勤めをしてきて、しみじみと思うのは、共にその場にいるということが一番の教育だということです。
禅はよく「不立文字」だと言われます。
文字に表せないのだといいます。
また仏陀の教えも、長い間文字に書かれることはなかったのです。
それは、いろんな理由が挙げられますが、お釈迦様と共に坐り、共に托鉢して暮らしていた人たちは、お釈迦様と共にいる喜びに満たされていて、それを言葉にすることなどできなかったのだと思います。
禅も同じで、単に文字を否定するのではなくて、共に坐ることの喜びに満たされて、言葉にならなかったというのが本質ではないかと思っています。
ですから、学生さんたちと、ただ共に坐りたかったのです。
朝の九時から摂心の終わりの午後三時まで、ずっとただただ坐り続けました。
その間に提唱という話もしましたが、一番大事なのは共にすわること、共に食事をすること、共にその場にいることなのです。」
と書いています。
この思いは今も全く変わらないのであります。
今回は、諸事情あって午前十時からでありましたが、十時から午後二時半まで坐ってきました。
今回も直日という坐禅指導を担当されていたのが、花園大学の宝積玄承老師でありました。
宝積老師は昭和十二年のお生まれですから、今年八十五歳であります。
しかし、お元気そのもので学生さん達に熱心に坐禅指導されていました。
昭和三十年に花園大学に入学されたとのこと、当時の学長であった山田無文老師の薫陶を受けて、卒業後に無文老師の祥福寺僧堂に入って修行された方であります。
多年祥福寺で修行され、その後花園大学の学長を務められた大森曹玄老師にも参じられたのでした。
こういう坐禅会の指導というと、若手の和尚が担当することが多いのですが、大ベテランの老師が直接指導してくださるのですから、有り難いことです。
私も久しぶりに宝積老師のお元気なお姿、その気迫に接することができて感動しました。
ただ、まだやはりコロナ感染症の対策の為なのか、二百名坐れる禅堂に参加者は二十名ほどなのでした。
あれだけ大きいし、風通しがいいので、もう少し参加しても大丈夫なのではと思ったところでした。
風通しがよかったのが、心に残りました。
汗が流れるのでしたが、心地よい風が吹いてくれたので、気持ちよく坐れました。
お昼の前に一時間ほど参加者の皆さんにお話をさせてもらいました。
本来であれば、摂心の時には提唱といって坐禅したまま本格的に語録を講義するのですが、坐禅になれない学生さんたちですので、教堂という大きな教室に移動して椅子に坐って聞いてもらいました。
そして午後3時に坐禅が終わってから、有志の方と懇談会を設けました。
2019年にも、
「その次に大事なのが、語り合うこと。
摂心の終わったあとに、一時間ほど、参加者の中でも有志の方と質疑応答、懇談の場を設けました。」
と書いています。
いままでは、花園禅塾の学生さん達が多かったのですが、今回は学生といっても社会人として入学された方々が残ってくれました。
これまた新たな学びがあったのでした。
もう会社を退職してこれから仏教を学ぼうという熱意のある方々が何名もいらっしゃるのであります。
いろんな思いをもって、仏教を学びたいという強い熱意を持っておられるのでした。
中には、末期の癌を克服されたという五十代の方もいらっしゃいました。
懇談といってもそのような方々の思いをこちらが拝聴させてもらったのでした。
終わった後に、大学の学長と、花園大学のこれからの可能性としては、やはりこういう社会人や一般の方々で仏教を深く学びたいという人に門戸を開くことが大切だと話し合ったのでした。
それにはやはりオンラインというのも大きな可能性を持っています。
懇談の席には、私の毎日の管長日記を聞いているという方もいらっしゃいました。有り難いことでありました。
それにしても早く広い禅堂にいっぱいの学生が集って坐禅ができるようになればと願うところであります。
横田南嶺