暑さ寒さの無いところ
九月十一日は「自分の季節を生きる」という題でした。
その書き出しが素晴らしい文章でその日の円覚寺本山の日曜説教でも使わせてもらいました。
「猛暑の日が続いたかと思うと急に風がひんやりする日があったりして、季節が確実に進んでいくことを実感する。
あんなに暑かったのがうそのような感じだ。
自然のリズムはすごいなあ、と思うのはそんな時だ。
季節が進むのを止められないように、人の変化も自然のリズムに逆らえない。」
というものです。
そこから海原先生は、七十歳の壁、八十歳の壁という年齢の壁について触れられて、多少の個人差はあっても逆らえないものがあると書かれています。
そして最後に
「年齢が進むと体調の不具合が出たり、眠りが浅くなったり、目や耳などの感覚器官が衰えたりする。
筋力も低下してくる。若いころのようにいつも絶好調というわけにはいかない。
ただどんなに体調が悪くなっても、たとえ病気になっても、生きている限り残された可能性はある。
秋になったら夏と同じことはできないし、同じ服装で過ごせない。
季節に合わせた服を着てその季節でできることを見つけていく。
それと同じように、自分の季節に合わせできることを見つけて過ごすのが、心地よい生き方になるのだろう。」
と書かれていました。
暑さ、寒さというと、『碧巌録』にある洞山禅師の問答を思い起こしました。
第四十三則にあります。
岩波書店の『現代語訳 碧巌録』の末木文美士先生の訳を参照させてもらいます。
僧が洞山に問うた、
「寒暑が来たら、どう避けましょうか」。
洞山「どうして寒暑の無いところへゆかぬ」。
「寒暑のない処とはどんなところですか」。
洞山「寒い時には、そなたを凍え切らせ、熱い時には、そなたをこの上なく熱くするのだ」。
というものです。
末木先生の註釈には、
「寒時寒殺闍黎」というのは、
「寒い時には寒さに徹底し、暑い時には熱さに徹底せよ、寒中に熱あり、暑中に凉ありの意。寒さ暑さに徹底すれば、並みの寒暑は苦にならず、避けるに及ばぬということ。」
と書かれてあり、更に、
「寒暑を生死の悩み、煩悩と見なすこともできる。
「殺」は、動詞の後について、その程度のはげしさを現わす。 愁殺、痛殺などと同様に、とうていやりきれぬ気分を添える。」
と解説されています。
山田無文老師の『碧巌録提唱』には、
「この殺という字にはコロスという意味はない。
よく世間でも黙殺、笑殺というが、これと同じように意味を強めているのである。
闇黎はここでは和尚というぐらいの意味である。
「寒い時にはナア、寒さになりきってしまうのじゃ。 暑い時にはナア、暑さになりきってしまうのじゃ。 そこが無寒暑のところだ」」
と説かれています。
更に無文老師は、
「寒い時には、素っ裸になって水でもかぶらっしゃい。
暑い時には、炎天へ出て野球でもやらっしゃい。そこが無寒暑のところだ」と提唱されています。
更に
「この世の中に暑くも寒くもないようなところはありはせん。
生き死にのないような世界はありはせん。
苦楽がないような世界はありはせん。
生き死にの真っただ中にあって生き死にを離れていかねばいかん。
苦楽の真っただ中におって苦楽を離れていかねばならん。
寒暑の真っただ中におって寒暑を離れていかねばならん。」
と説かれていて、この問題は単に暑さ、寒さの問題ではなく、生と死の問題だと指摘されています。
その点は、朝比奈宗源老師の『碧巌録提唱』には、より一層明確に説かれています。
朝比奈老師は
「寒時は闇黎を寒殺し、熱時は闇黎を熱殺す。
寒いときは寒い一枚、暑いときは暑い一枚、禅宗では寒さになりきり、暑さになりきれと言います。
だが暑さ寒さはさておいて、さあ断末魔、いよいよ命がないという時に到った。 さあどうする。
「生死のない所へ行けばいいじゃないか」というのです。
生も死もない所へ行けばいいじゃないか。
生も死もない所とは何所ですか。
生きている時は生きておる。
死んだ時には死んだ。
良寛じゃないが、病気のときは病気するがよろしい。
死ぬときは死ぬのがよろしい。死ぬときは死ぬだけです。
生きている間は生きているだけです。こういうのです。」
と説かれています。
そこから朝比奈老師は、生も死もないところを、仏心の世界として提唱してくださっています。
「無寒暑の処、無生死の処、私は、佛心には生死がない。
佛心には罪も汚れもないから、いつも浄らかである。
いつも静かであり、いつも安らかである。
佛心は宇宙いっぱいだ。
人間は佛心から生まれ、佛心の中に住み、佛心の中に息を引取る。
生まれる前も佛心、生きている間も佛心、死後もまた佛心、どこでどんな死に方をしても佛心の真只中だとこういうのです。
お互いがどんな条件でどんな死に方をしても、佛心からははずれない。
暑い寒いといって騒いでも、その心にも実体はない。」
というのであります。
この生も死もない仏心に目覚めて、その中で、ひとときの生があり、死という現象が訪れるのみであって、なにも生き死には無いし、まして況んや暑さ寒さもないのです。
そう自覚しながらも、暑い時には、暑いように団扇で扇いで、打ち水をして涼をとり、寒い時には重ね着したり厚着をして暖を取るのであります。
暑さ寒さも彼岸までといいますので、今しばらく、この暑さにも慣れないといけません。
横田南嶺