死生観を持つ
『修身教授録』は森信三先生がなさった、天王寺師範学校の修身科の授業の記録なのであります。
森先生は、あえて「修身教科書」を使わずに、ご自身の口述を生徒が筆記したものです。
この第四講「死」についての講義の冒頭に、
「諸君らの中には、わたくしのこの 「修身」の授業は、少し変だと思われる人があるかも知れません。
しかしこれはわたくしが、自分自身に対して、その時その時に、一番心の問題となっていることをお話しているのです。
ですから多くの場合、諸君らに対して話すというより、むしろわたくし自身が、自分に対していい聞かせているわけです。」
と書かれています。
教科書に従って講義するというのではなく、自分自身でその時一番関心のある問題についてご自身の言葉で語っているものです。
ですから講義について「随って準備をしないといえば、少しもしないともいえますが、また準備するといえば、二六時中いつも準備しているともいえるわけです。
即ち見ること聞くこと、皆修身の種ならざるはないわけです。」
と説かれています。
私なども先代の管長から、私どもはいつ何をしても、何を見ても聞いても、法話や講演の題材とならないものはないと教えられてきました。
常に、どこにいても教材でないものはないのです。
そこで第四講「死」についても森先生が、
「最近わたくしの親しい人々の中に、相次いで亡くなった人がありますので、わたくし自身としても、今さらのように「死」の問題が考えられます。
そこで今日は「死」の問題について、 少しお話してみようと思います。」
といって、講義が始まっています。
森先生は死を「一生の総決算を意味するもの」と言い、更に
「死によってその人の真価は決定せられる」とまで仰せになっています。
そして、「人は死して何処へ行くのであろうか」「この問題は大よそ生ある人間の何時かは必ず当面する問題といってよいでしょう。」と仰せになっておいて、死については「実証的には永遠に知ることの出来ない最難の問題」であるというのです。
森先生は、死について、
「もしいいうることがあるとしたら、われわれは死によって、生前の世界に還るということでありましょう。
そして生前の世界に還るとは、即ち宇宙の根本生命に還るということであります。
それを宗教では、あるいは天国に還るといい、あるいは浄土に生まれるというわけですが、この意味において死は何人にとっても安らぎであり、憩いであるはずであります。
同時に善人も悪人も、この永遠の安らぎに入る時、すべては浄められるわけであります。」
と説かれています。
これが森先生の死生観だと分かります。
東洋には古来、
「生は寄なり死は帰なり」という言葉がありました。
『淮南子』にある言葉です。
『広辞苑』によれば、
「人は天地の本源から生まれて暫くこの仮の世に身を寄せるに過ぎないが、死はこの仮の世を去ってもとの本源に帰ることである。」
と解説されています。
死について考えるということは、私が満二歳の時からずっと貫いてきた課題であります。
死の問題に取り組んで坐禅を始めてずっと今日に到るのであります。
死について思うと、ふとアルフォンス・デーケンさんのことを思い出しました。
書架に、デーケン先生の『死とどう向き合うか』という本がございます。
デーケン先生は1932年にドイツのお生まれで、2020年八十八歳でお亡くなりになっています。
円覚寺の夏期講座で講演していただいたこともありました。
とてもユーモアあふれる先生であったことを覚えています。
イエズス会司祭であり上智大学名誉教授でありました。
専門は、死生学であります。
「死生学」というのは、どういう学問かというと、デーケン先生のこの本の「はじめに」に次のように書かれていますので、引用させてもらいます。
「この世に生を受けたすべてのものにとって、死は避けることのできない現実です。
では、このだれにでもいつか必ず訪れる死をしっかり見つめて考えるためには、死をどう捉え、どう理解したらいいのでしょうか。
これは年代や性別を問わず、人間としてどうしても取り組まなければならない切実な課題だと思います。
これを研究するのが、死生学という学問の分野です。」
というのです。
デーケン先生が、死について思うようになったのが、小学生の頃の戦争体験だそうです。
第二次世界大戦の最中、「戦争の終わりごろになると、毎晩のように敵機の来襲を知らせるサイレンで起こされ、眠い目をこすりながら、家中揃って防空壕へ待避する生活が続きました。」というのです。
そして「前日の午後、笑って別れた級友が、翌朝には一家全滅の無残な焼死体になっていたこともあります。」
という体験をなされたのでした。
こういう「死と隣り合わせの毎日」を通じて、「生と死について考えだすきっかけ」となったそうなのです。
この本の最終章は「死後の生命への希望」というもので、そのなかでデーケン先生は、
「若い時には、知識、財産、社会的地位、世間的な評価など、人はいろいろな目標を追い求めます。
しかし、だれでも年をとるにつれて、若き日の夢の多くが、結局は実現できなかったことに気づかされ、また、幸い実現できた目標があっても、それだけでは心の渇きが決して満たされていないことを悟ります。
そのうえ、かつてあれほど努力して獲得し維持してきた健康や地位や財産などが、徐々に失われていくのを感じないわけにはいきません。
やがて、だれでも死によって、持てるすべてのものを手放さなければならなくなる時を迎えるのです。
ここで私たちは、いやおうなく大きな方向転換を迫られます」と書かれています。
そして更に「人生の努力の重点を、外面的なものから、しだいに内面的なものへと向け変えなければならないのです。
ものを「持つ」ということの代わりに、「ある」という新しい価値の領域を発見しなければなりません。
何を「持つ」かではなく、どんな人間で 「ある」かが大切になってくるのです。
自分が築き上げ、慣れ親しんだ持てるものへの執着を断って、もう一度、自由な心で旅立つことを考える必要があります。」
と書かれています。
どうあるかが問題になるというのです。
更にゲーテの言葉を紹介されています。
「ゲーテは、人間の精神は本質的に不滅だと言います。 彼は霊魂の不滅ということを、次のようなたとえで述べています。
死とは日が落ちる時のようなものだ。
私たちの目からは隠れて見えなくなってしまっても、太陽そのものは地平線の向こうで変わらずに輝いている。
それと同じように、生命は死後も変わらずに存在し続けるのだ。」
という言葉です。
禅語に「昨夜金烏飛んで海に入り、暁天、旧きに依って一輪紅なり」というのがあります。
昨晩太陽が海に沈んで、また朝になったら太陽が赤々と上ってきたという意味であります。
ただ禅の場合、肉体と精神とを分けて、肉体が滅んで精神だけが残るという見方はしていません。
死は決して終わりではなく、また新たな命となってこの天と地を照らすというのであります。
元気なうちに、死について考え、「死生観」を持っておくことが大切であります。
横田南嶺