いてくれてよかった
引用させてもらいます。
「ある人が、隣の街へ引っ越して行こうとしていました。
そして町境に来たときに、小さな年取ったおじいさんがボロボロの着物を着て石の上に座っていました。
そのとき引っ越していく人が、「おじいさん、私がこれから行く町はいい町かしら、幸せにしてくれる町かしら」と聞いたのです。
そうしたらおじいさんは、「今まで住んでいた町であなたは幸せでしたか、不幸でしたか、どっちでしたか」と聞きました。
「あまり良くなかった、不幸だった」と言うと、おじいさんは、「そうしたらこれから行く町も、今まで住んでいた町と同じでしょう 」と言いました。
「あなたの答え通りの町が、次の町でも待っていますよ」と言ったのです。」
という話です。
この話には続きがあって、また別の人が来て同じことをおじいさんに尋ねます。
おじいさんも同じように、「今まで住んでいた町はどうでしたか」と聞きます。
「今まで住んでいた町は素晴らしかった、とても幸せだった」と答えると、おじいさんは、「今から行く町もきっと同じように良い町で、幸せでしょう」と答えたのでした。
何が幸せなのか、これはその人の気持ちで決まるものです。
欲望の充足ではないのです。
むしろ欲望が強ければ強いほど、かなえられることが少なくなって、不平不満ばかりが出てきます。
今まで暮らした町で、不平不満ばかり言って、良くなかった、不幸だったと思っている人は、次の町に行っても同じように、不平不満ばかり言うようになるものです。
森信三先生が『幻の講話 第一巻』の中で
「真の幸福とは、その人にどれほど感謝の念があるか否かという問題」であると仰っている通りであります。
黒住宗忠が
何事もありがたいにて世のすめば
向かうものごとみなありがたいなり
と詠っている通りです。
有り難いと受けとめるこころで暮らしていると、何が起きても有り難いとなります。
森信三先生は
「わたくしたちのこの体は、両親によってこの地上に生み落とされたばかりか、まるでこぶしほどの大きさといってもよいほどだった赤ん坊のころから、現在になるまでの両親の心づかいと骨折りが、如何ほどのものだったかということは、結局は自分もまたやがて人の子の親となって、わが子を育ててみないことには、十分には分からないのであります。
しかもわたくしたちが今日あるを得たのは、ひとりそれのみでなくて、世の中のあらゆる人びとから、直接・間接に、その恩恵を受けて来たからであります。
そしてこの点は、たとえばわたくしたちの食べるわずか一度の食事でさえ、もしそれを詳しく調べてみたら、幾百人、いな幾千人という多くの人びとの賜物といってよいでしょう。
またわたくしたちの着ている衣類をはじめその使っている様ざまな道具や品物にいたるまで、一つとしてわたくしたちが、自分の力で生み出したと言いうる物は無いはずであります。
いわんや太陽の光とか、空気や水などということになりますと、これは全くわれわれ人間の力によって生み出したものではないのであります。」
と書かれています。
そこで更に
「現在の自分の生活の一切が、自分一人の力によってできたと思うのは、根本的な誤りであって、それどころか、真に徹底して考えると、現在の自分の生活の一切は、すべて自己以外の力によって、恵まれ与えられたものだということの分かる人」のことを宗教的な人と言うのであります。
これが諸法無我の教えの端的であります。
自分と思っているものは、自分以外の力によってこそ成り立っているのです。
修行の究極もその目覚めであります。
『悟りから祈りへ』の中で野口法蔵先生がスリランカでの壮絶な修行体験を書かれています。
想像しただけでもぞっとします。
サバイバルゲームのようなものだと野口先生も仰っています。
二ヶ月ごとに合計六ヶ月の修行なのだそうです。
一つは蟻だらけの部屋で過ごすのだそうです。そこで蟻一匹殺さないで過ごすのです。
夜は眠れなくなります。
体中蟻まみれになりながら過ごすというのです。
次が蛭漬けです。蛭は血を吸うので蟻よりも大変であります。
蛭に血を吸わせ放題にするというのですから驚きであります。
最後は湿気の高いところで、人骨がばらまいてあるところで過ごすのだそうです。
そんな中でも心を乱さないように呼吸を調えて瞑想するというのです。
そのような想像を絶する修行の果てに何に気がついたか、野口先生は次のように書かれています。
「このサバイバル的な修行のいちばんの成果は、終わった段階で蟻も蚊も蛭もみなかわいく思えてきたことでした。
ただ殺してはいけないというだけではなく、身の周りにたくさんうごめいているそれらの存在が、存在として自分と同格に見えてきたのです。
ですから殺生するな云々ということではなく、それらの存在は人ではないけれど、まさに「この人たちがいてくれてよかった」ということを感じたのです。
生きていく上では自分の敵であった存在ですから、このニュアンスを表現するのは難しいかも知れません。それはけっして感謝ではありません。
ただただ「いてくれてよかった」「存在してくれてよかった」と実感しました。」
というのであります。
想像を絶するような過酷な修行の果てにたどり着いたのは、やはり慈悲のこころなのであります。
野口先生ご自身は、
「このときの「いてくれてよかった」という感覚が、「慈悲」と呼べるものであったかどうかはわかりません。」
と書かれていますが、全く差別せずに排除しようともせずに、まさに同じ存在として認める心であります。
修行というのは、このような高い心境に達するのだと学ぶ事ができました。
野口先生のような修行はとても無理ですが、身近な人に対して「あなたがいてくれてよかった」という気持ちを持ちたいものです。
せめてそのような修行を心がけたいものであります。
横田南嶺