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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.09.14
今日の言葉

こだわらない

こだわらないというのは難しいことです。

人間は何かにこだわっているものです。

龍雲寺の細川晋輔さんと須磨寺の小池陽人さんとの寺子屋ラジオでは「はじめての般若心経」というのを続けてくださっています。

お二人で楽しく語りながら、般若心経の世界を説いてくださっています。

第22回は「是諸法空相 (ぜしょほうくうそう)」というところでありました。

はじめにお二人でいろいろ最近の話題について語り合っています。

特に細川さんは、長野県飯山市にある正受庵というところで、全国の修行道場から集まった修行僧達が坐禅に励んでいた事に触れていました。

全国の修行道場から数名ずつ集まって二十名ほどで、集中して坐禅したのです。

細川さんは、その運営に携わっていたのでした。

私のところからも四名の修行僧が参加させてもらいました。

いろんなところから、修行僧が集まると、同じ臨済宗であっても作法がそれぞれ全く異なるのであります。

禅堂に入るときの作法、食事の作法、鐘や板木を打つ作法なども悉く異なります。

そういう時に、自分のところのやり方にこだわっていたら何も出来なくなります。

いろんなやり方があるのだと思って、こだわらずに行うしかありません。

神戸市長田区の多世代型介護付きシェアハウス「はっぴーの家ろっけん」の代表である首藤義敬が仰っていたことを思います。

それは「違和感は三つ以上重なるとどうでも良くなる」というのであります。

二つくらいだと、こっちが正しい、いやこちらの方がいいのだと言って混乱しますが、三つ以上になると、もうどうでもよくなって、こだわりがなくなるのだということです。

いろんな作法の違いがあっても、修行僧達の初々しいこと、キビキビしたところ、すがすがしいところは共通しているのであります。

「是諸法空相」を小池さんはこだわらないことだと端的に仰っていたことが印象に残りました。

細川さんは、空相の「相」に注目して、相を姿だと解釈されていました。

そこで、ある老師から言われた「お坊さんは顔、声、姿だ」という言葉を紹介されていました。

これは多分方広寺の大井際断老師のことだと思いました。

顔で評価するなど、あまり良くないように思われるかも知れませんが、やはりその人の人となりというのは顔に随分と表れるものであります。

有名なリンカーンのエピソードを紹介されていました。

元米国大統領リンカーンが、ある人を内閣僚に登用したらどうか、と進言されたとき、「あの人の顔がよくない」と返答したと言うのです。

進言した人は、「しかし、親からもらった顔なので自分の責任ではないはずだ」と反論したら、それを聞いたリンカーンは「四〇歳を過ぎたら男は自分の顔に責任がある」と言ったという話であります。

この話も紹介されていました。

確かに、人相、声、立ち居振る舞いから感じるものがあるものです。

若い修行僧の姿、その声、立ち居振る舞いにはこころ打たれるところがあります。

また住職になれば、もっと柔らかに親しみやすいようになるのです。

人相も実在しているけれども決まったものはない、決まった形がないという風に説かれていました。

空相を姿から説かれるというのも、私にはできないことだと感じ入りました。

原文を学んでいると、これは姿のことではなく、何々を特性としているという意味です。

空であることを特質としている意味であります。

そういう原文にこだわっていては、姿という解釈は出てこないと思いました。

あくまでも玄奘三蔵が「空相」と訳されたことから発展した解釈であります。

私は、原文のサンスクリットにとらわれていたことを学びました。

こだわらないということから発展して、今の問題にも触れていました。

ものごとを長い時間軸で観るということも大切だと細川さんが指摘されました。

今自分だけがいいというのではなく、長いものの見方です。

子供や孫たちの世代のことまでも思うことも大切であります。

坂村真民先生が後から来る者の為にと詠ったのでした。

しかし、今の時代は目先のことしか考えていないのではないかということです。

長期的なことを言うと何かと理想論のように捉えられてしまうことがあります。

短期に成果を出さないといけないというのがこの頃の風潮らしいのです。

我々宗教者は、長期的なことを言ったり理想的なことを社会に発信していく事は、すごい大事なのかなと小池さんが指摘されました。

もっともそう言いながらも禅では、「今ここ」を大事にしています。

そこで細川さんは、「その時間の捉え方も二つある」と指摘されました。

今ここをしっかり見つめて生きることと、長い将来のことを見据えて行動することの二つであります。

これは森信三先生が、

「一眼は遠く歴史の彼方へ

他の一眼は脚下の実践へ」

と仰せになった通りであります。

そして細川さんは、今ここを見据えて生きることと、長期的にとらえることの二つの区分を超えてフラットにこだわらずに生きことが大事ではないかと、諸法空相をと説かれていました。

細川さんと小池さんのお二人の掛け合いが素晴らしく、聞いていて心地良いものですので、みなさんにも是非お薦めします。

このこだわらないということほど難しいものはありません。

人はなにかこだわりをもって生きているものです。

そこを自分はこだわらないのだと言っていると、それはこだわらないことにこだわっていることになってしまうのです。

ですから、こだわらない生き方というのは、まず人は誰しもこだわりをもって生きているのだということを認めること、そして自分もまた何らかのこだわりをもっているのだと自覚していることしかないと思うのであります。

そうして、それぞれのこだわりを認めて生きるしかないというのが、こだわらない生き方かと思っています。

 
横田南嶺

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