失
その第409回には、「失笑の「失」由来は…」と書かれていました。
八月二十七日のことでした。
解説はその日の毎日新聞の誌面の中にあるのですが、探してみると
「失うのではなく
「失笑」とは本来笑うところではない場面で思わず笑ってしまうことです。」
と書かれていました。
「この「失」はなくなることではありません。「失言」と同じく、うっかり出るという意味です。」
というのであります。
なるほどと思いました。
漢和辞典を調べてみると、
「失笑」は「おかしさをこらえきれずに思わず笑うこと」なのです。
それから「失言」は
①ゲンをシッす。言ってはならないことをうっかりして言ってしまう。
②誤って言ったそのことば。
③ゲンをシッす。言ったことが損失である。
という意味が書かれています。
「失火」というのは
「① ひをシッす。あやまって火災をおこす。
②あやまっておこした火災」。
という意味なのです。
火を失うことではないのです。
では「失声」はどうかというと、
①泣きすぎて声が出なくなること。
②こえをシッす 声をたてることができない。
③[俗語]思わず声をたてる。
という意味が書かれていて、こちらは声を失うことなのです。
なかなか難しいものだと思いました。
そこで「失」の字を調べると、
❶シッす{動詞・名詞}うしなう。とり逃がす。するりとなくすること。なくしたもの。[対語]得・守・持。
❷シッす{動詞}うしなう。やるべき仕事や時期・道筋などを見のがす。
❸{名詞}あやまち。やりすぎや見のがしのしくじり。
❹シッす{動詞}うしなう。中に押さえこんでおくべきものを押さえきれずに、またはうっかりして外へ出してしまう。「失言」「失火」
❺{動詞}するりと抜け去る。また、なくなる。
という意味が書かれていました。
失笑というのは四番の中に、「押さえこんでおくべきものを押さえきれずに、またはうっかりして外に出してしまうこと」なのであります。
失笑という言葉が禅の語録にも出てきます。
夾山禅師が初め京口の寺に住した時のことです。
ある僧が「如何なるか是れ法身」と問いました。
法身とはどのようなものでしょうかと問うたのです。
夾山禅師は、「法身無相」と答えました。
法身には相はないということです。
更に僧が「如何なるか是れ法眼」と問いました。
夾山は「法眼瑕無し」と答えました。
その時に道吾禅師が、そのお説法の席にいて、夾山禅師の答えを聞いて失笑しました。
こらえきれずに笑ったのです。
夾山禅師は、道吾禅師に教えを乞いました。
道吾禅師は、直接答えることはせずに、船子和尚の処へ行くように指示しました。
この船子和尚というのは実に変わった禅僧で、薬山禅師のもとで修行を終えて後、船の上で暮らしていました。
薬山のもとで修行仲間だった道吾禅師に、もしも「これは」と思う禅僧がいたら、私の処へ寄こして欲しいと頼んで、自身は船の上で思いのままに暮らしていました。
船子和尚は、この夾山禅師と船の上で問答しました。
激しい問答のやりとりが続くのですが、夾山禅師は船から水中に落とされてしまいました。
何とか船に上がろうとする夾山禅師に「さあ言え、言え」と迫ります。
何か答えようとすると、船を漕ぐ櫂で夾山禅師を打ちすえました。
そこで夾山禅師はハッと悟るところがあったのです。
船子和尚も、自分が薬山のもとで得たものを、あなたも体得できたとその悟境を認めました。
そうして再び寺に帰りました。
道吾禅師は、僧を遣わして夾山禅師に質問をさせました。
「如何なるか法身」と。
夾山禅師は、「法身無相」と答えました。
「如何なるか是れ法眼」と問うと、「法眼瑕無し」と答えました。
この僧は道吾禅師のもとに帰って、この問答の結果を報告しました。
すると道吾禅師は、夾山禅師のことを「こんどは徹底したな」と認めたという話であります。
失にちなんで「仕官千日、失、一朝に在り」という言葉もあります。
『碧巌録』の第四十八則にある問答です。
岩波書店の『現代語訳 碧巌録』から末木文美士先生の訳を引用させてもらいます。
「王大傅が招慶院に来て、茶をいれた。
その時、慧朗上座は明招のために茶瓶を手に取ると、慧朗は茶瓶をひっくり返した。
王太傅はそれを見て上座にきいた、「風炉の下は何ですか」。
慧朗「捧炉神です」。
王太傅「捧炉神なら、どうして茶瓶をひっくり返したりするのですか」。
慧朗「役人勤め千日でも、一日で失脚する」。
王太傅は袖を払って出て行ってしまった。
明招が言った、「慧朗上座は招慶院の飯を食べたのに、長江の向こうで焼けぼっくいを打ちに行こうというのか」。
慧朗「和尚さまはどうしますか」。
明招「人間ならぬものにしてやられたわい」。
雪竇のコメント「あの時、風炉を蹴とばせばよかった」。
というものです。
とてもわかりにくい問答ですが、「仕官千日、失、一朝に在り」という言葉はよく理解できます。
千日まじめに勤めてきたとしても、一度の過ちによって水の泡となることがあります。
過っては改むるに憚ること勿れと孔子は言いました。
人間過失はあるものです。謙虚に非を認めてお詫びしてやり直すことが大事です。
失の一字からあれこれと思いました。
横田南嶺