わたしのものはあるのか
先日八月三十日に公開された仏教講義 7「阿含経の教え 3,その6」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)では、仏教の教えの核心を分かりやすく語ってくださっていました。
まず「相応部蘊篇1-4-1」という阿含経典の言葉を紹介してくれました。
「あなたのものではないもの」 は捨てなさい。
それが安楽への道である。
「あなたのものではないもの」、それは五蘊である。
という短い言葉であります。
私というのは何かと言えば、仏教では、それは四大五蘊であると答えます。
四大というのは、地水火風という四つの元素であります。
そして五蘊は、色受想行識の五つであります。
簡単に説明しますと、
色は、まずこの感覚器官の具わった肉体です。
この肉体に眼耳鼻舌身の感覚器官があるのです。
感覚器官が外の世界に触れて、感じる快と不快とが、感受作用である「受」です。
感じたことに、喜びや怒りを思うのが、「想」です。
それに止まらずに、さらに思いを形成してゆきます。
愛憎という強い思いのはたらきに増幅されてゆきます。これが意志とか形成作用とよばれる「行」です。
その結果、外の世界を、善と悪、是と非と分別して認識するのです。これが「識」です。
私とはこの五蘊の集合体なのであります。
五蘊は我ではないということが仏教では説かれます。
我というのは不変の実体を指すものです。
自我は永続し、決して変化しない、単一の実体で、個人の中にある主体として、自(みずか)らを支配するもの(常・一・主・宰)であると、仏教では解釈し、ゴータマ‐ブッダをはじめ、小乗・大乗のすべての学派が実体としての自我の存在を否定している(無我)。
我ではない、自分のものではないというのが無我の教えです。
自分だと思い込んでいる五蘊は、実は私のものではないというのです。
そこから佐々木先生は、有名なダンマパダの言葉を紹介されました。
『ブッダ 100の言葉』(宝島社)で訳されている法句経の言葉を引用されました。
愚かな人は、
「私には息子がいる」「私には財産がある」などと言ってそれで思い悩むが、
自分自身がそもそも自分のものではない。
ましてやどうして、息子が自分のものであろうか。
財産が自分のものであったりしようか。
というのであります。
自分の息子、自分の財産といっても我がものではないのです。
ここでいう我というのは、常住で不変、そして自分の意のままになるという意味であります。
財産は不変ではありません。変化します。自分の思うようにもなりません。
自分の子といっても不変ではありませんし、自分の思うようになるはずもないのです。
かつて清水寺で講演したときにいただいた『清水寺にあいにこないか』という本に森清顕和上が書かれています。
ある方から生き様、死に様を考えさせられる話を聞きました。実話だそうです。
「あるおじいさんがいて、ものすごい強欲な人だったそうです。
なんでもお金、お金という感じで、みんなから疎まれていたそうです。
ところが、自分が病気になって、もうわずかで死ぬとわかったそうです。
そのときにこのままではいけないと改心して、今までやってきたことを反省し、最後に「自分が亡くなったときに、棺桶に、手のところだけ開けてくれ」と言ったそうです。
どういうことかというと、棺桶から手をにゅっと出した状態のままで葬式を出してほしいと言ったそうです。
実際に見たら、結構ビックリする光景です。
棺桶から手が二本、出ているのですからね。
要は、何がしたかったかというと、その方は今まで、ものすごい強欲な生活をしてきた。
人に対してそういう振る舞いもしてきた。
しかし、死んでいくときは、お金を一銭も持っていくことができない。
何も持っていくことができない。
生まれたときと同じ、裸一貫でしか死んでいくことはできないということを最後に伝えて死にたいということで、そうされたそうです。
実際、手を出したままにしました。
お葬式のとき、その姿を見た弔問の方たちは、なんと言ったと思いますか。
「あー、あの人は生前、欲深かったから、死んでからもお香典を持ってこいと言って、手を出してるわ」と、こういうふうに言ったそうです。
おじいさんの伝えたかったことを知っている人が、それを開いたときに、「いやー、あの人は途中でそうではないということに気づいて、それを最後、言いたかったけれども、あの人の生き様というものから、最後の死んだ姿を見たときに、みんなはそうは思わずに、さらに香典を持ってこいと手を出していると思った。
これもあの人の生き様の一つなんだなあというようなことを感じた」とおっしゃっていました。」
という話であります。
森清顕和上にうかがうと実話だということでした。
更に佐々木先生は、スッタニパータの言葉を引用されていました。
こちらは、中村元先生の訳である『ブッダのことば』(岩波文庫)から引用させてもらいます。
何ものかをわがものであると執著して動揺している人々を見よ。
(かれらのありさまは) ひからびた流れの水の少いところにいる魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。
諸々の生存に対して執著することなしに。
という言葉です。
「ひからびた流れの水の少いところにいる魚のようなもの」という喩えは実にこころに深く響きます。
苦しんでいる様子を表しています。
更に佐々木先生は、スッタニパータの言葉を紹介されました。
中村先生の訳では
人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
というものです。
常住ではないというのが、我ではないということになるのです。
中国にも轍鮒の急という喩えがあります。
轍(わだち)の水たまりにいる鮒のようなものだということです。
ひどく危急に瀕するもののたとえとして用いられます。
私のものに執着しているのは、轍の水たまりにいる鮒なようなものだと自覚することが大事であります。
横田南嶺