忘れた頃に
なまなましい体験談なので、一部を引用して紹介します。
「災害は正午少し前に発生しました。その時刻がわからないわけがありません。
なぜなら、地震発生直後、誰もが恐怖に怯えていた数秒のあいだに、しだいに激しくなる揺れがいつおさまるのかがわからないでいるとき、正午を告げる号砲係が、天地の混乱にもさほど慌てずに、まるで最後の審判のラッパを吹き鳴らすかのように、与えられた任務をまっとうし砲声を轟かせたのですから。
私はただちに事務所の外に出ました。ほかの大使館員たちも同様です。
周囲の地面全体が怪物のように、生命のある生き物のように動くのを見、人間の建てた建物がいたるところで砂でできた城のようにぱったり倒れていくのを見ながら、私たちが味わった感覚は忘れようとしても忘れられるものではありません。
すでに述べたように、大使館旧館の建物は補強した支柱のおかげでみごとにもちこたえました。
しかし屋根瓦、壁の漆喰、間仕切りはすべて崩れ落ち、屋内はすべてが倒れて瓦礫の山となり、筆舌につくしがたいありさまだったのです。
直後に火災が発生し、いたるところで煙が立ちのぼりはじめました。」
というのであります。
「地面全体が怪物のように、生命のある生き物のように動くのを見、人間の建てた建物がいたるところで砂でできた城のようにぱったり倒れていく」という情景は想像するだけでも恐ろしいものです。
そんな大震災があって、首都移転の問題も「表向きには取り沙汰されていません」と書かれていますが、一部にはあったようなのです。
元首相の高橋是清は次のような主張をしていたそうです。
「貴重品を新聞の切れはしにくるんで、うかつにそこらにおきっぱなしにする人はいない。
みな安全な金庫にしまっておく。
それなのに、国家の命運にかかわる、重要で貴重な、国の頭脳である首都の機構を、安全な場所におかずに、災害に最もさらされている場所においておくのは、矛盾しているではないか」。
というのです。
クローデルも「たしかに、イタリアが首都をメッシーナ(シチリア島北東端の港湾都市一九〇八年の地震で全滅)におくようなものです」と書かれています。
更にクローデルは、
「一六一五(元和元)年から一九二三年までのあいだに、東京の街は地震あるいは津波で(火災は数えません)、なんと九回も破壊されているのです!
一六一五年、一六二八(寛永五)年、一六三〇(寛永七)年、一六三五(寛永十二)年、一六九七(元禄十)年、一七〇三(元禄十六)年、一七〇七 (宝永四)年、一八五五(安政二)、そして一九二三年です。
一国の首都をかくのごとき 〈ボイラーの蓋〉の上に、あるいは崩れかかった崖の縁においておくのはじつに非常識なことです。」
と書かれています。
クローデルは本国のフランスに比べて日本の災害の多いことに驚いたのでありました。
それにしても
「東京と横浜という、あわせて数百万人の人口を擁するふたつの大都市が、わずか数時間で壊滅した」というのは事実なのです。
その外的要因の一つとしてクローデルは、
「大地震と烈風が時を同じくして猛威を振るったことがあげられます。
地震が火災を起こすと同時に、消火手段を麻痺させました。
さらに猛烈な火炎を伴った烈風が、あらゆる方向に恐るべき速度で火災を広げました。 炎が水平方向に広がったのです」と指摘されます。
そしてもう一つの内的要因としては、
「一、慎重さに欠け、なおかつその知識のない建築家たちが、安普請で外国式の建物を建築したことがあげられます」と言います。
更に「二、東京や横浜は都市というよりは巨大な村というべきで、乾燥した木造の掘っ建て小屋が密集して際限なく広がっていたという事実があります。 ふたつの都市は、工事現場が、あるいは森が燃えるように燃えました。災害の広がりをくい止める準備はまったくできていませんでした。」
と書かれています。
そしてクローデルは「しかし、将来なにが起こるか、いったい誰に予測できるでしょうか。」と言います。
『円覚寺史』にある朝比奈宗源老師の「大震災同顧」という文章を紹介します。
「大震災は大正十二年九月一日である。
九月三日は當山開山佛光國師の毎歳忌に當るので、一日は早朝から一山總出仕で諸堂の莊嚴をし、まず開山塔舎利殿から大方丈をすまし、午後に佛殿をしようと、心をして一休した。午前十一時五十八分がその時間である。
私も宗務院にあててあった離れの客間で、宗務當局、来客と談中であった。
どんという恐ろしい大音響がしたと思うと、みしみしと屋鳴し震動して來た。
私ははじめ地震とは思わず、横須賀あたりの火薬庫の大爆裂だと思い、その現場の損害など頭にえがいていた。
ところがみしみしがひどくなり、同席した井上宗環總理、天野俊道執事、齊藤玉應師等が、相ついで庭に飛び下りた。
私もその後に続いた。
庭さきにあった竹垣にしがみついて見るともなしに見ると、今までいた建物も、大常住の庫裡も、音もなく土煙をあげてつぶれた。
この時私はたしかに何にも音響をきかなかった。
眼の前で井上総理(今の宗務総長)がふり落されそうになっては垣根にしがみついていた。
それがおかしくさえ思えたし、又、これが人間の世界だ、開山忌が滅山忌となったとも思い、庫裡のつぶれたのを見て、食後たしかに庫裡に残っていた壽徳庵の石窓和尚、東慶寺禅忠和尚のことが気になった。
少しすると、つぶれた庫裡の茅屋根の破風の破れ目から、 煤だらけになった禅忠和尚が顔を出し私共を見つけると、「ばあー」といって笑い、茅をかきわけて出て来た。
一寸おちついたので、ふらふらしながら石段を下り、杉林の処で余震の第一回をすごし、堯道老師の安否を問うため僧堂の方へ行くと、老師は隠寮の佛間で遭難されたが、かすり傷一つされなかったので、震災には竹藪が安全だときいたので、お伴をして鐵道づたいに自坊の浄智寺へ行った。
浄智寺も伽藍はみなつぶされていたので、 戸板を藪の中にしき、疊をしいて老師の座敷とし、侍者を二人侍せしめて、私は圓覺寺へとって返した。
伽藍は、佛殿、大方丈、庫裡、書院、僧堂は禅堂、舎利殿、隠寮、塔頭諸寺の建物も殆んど全壊、開山塔、時宗公廟、夢窓國師塔所、經藏、山門、僧堂庫裡だけが残った。
心配した通り石窓老師は庫裡で圧死され、又績燈庵は火災をおこし、婆子一人は建物の下敷きとなり、はさんだ大木材の切断ができないため、不憫にも焼死した。
私共は協議して、各班を組織し、遭難者のための焚き出しや、横死者の同向、警戒等に當った。
特に堯道老師が數千圓を喜捨し、玄米を求めて山門下にかまどをつき、粥を煮て往来の人々に接待したことは、空腹と疲労にあえぐ人々をどれだけ慰めたか分らない。」
と書かれています。
実にたいへんな震災だったことがよく伝わります。
天災は忘れたころにやって来るとはよく言う言葉ですが、この世は安全、安楽なものではないことを肝に銘ずべきであります。
横田南嶺