災害よりも恐ろしいもの
八月二十八日は、「気候変動に根本対策を」という題でした。
海原先生は、
「ベランダに小さなプランターを置いてハーブを育てている」のだそうです。
それは「サラダやお茶にするのが楽しみだ。
バジル、イタリアンパセリ、ローズマリー、ミントという顔ぶれだ」というのであります。
そして「この夏の暑さにもめげず、ハーブはすくすく育っていた」のですが、
「ところがある朝、プランターを見ると、イタリアンパセリのみが茎だけになり葉が全て何か鋭い刃物で刈り取られたようになっている。
何事が起こったのか、とぼうぜんとした」というのであります。
その原因はというと、
「そういえば、と思いだしたのが最近よく見かけるヒヨドリだ」ということです。
海原先生も「甲高い声で鳴いて飛んでいるのに気がついたことがある。」というのでした。
海原先生は、大事に育てていたベランダのプランターの植物でも「何とも言えない喪失感を覚えた」のでした。
そこで、更に今年の夏の暑さと、豪雨のことに触れて、「収穫まぢかで豪雨の被害にあった東北や北海道の農家の方はどんな思いだろう。報道で泥にまみれたリンゴやメロンを見た。秋田では育てていた比内地鶏の多くが流されてしまったという。
大事に育てた農作物や動物たちを不本意な形で失うのは、単にそれが収入ということだけではない喪失感になるに違いない。」
と思いを巡らせていたのでした。
「被害から回復するには時間がかかる。復旧したと思ったらまた自然災害にあったということも聞く」と書かれているように、大自然を相手にする仕事はたいへんなものです。
海原先生は「その時々で皆が助け合い支援し合うことは大事だが、これは疲れ切ってしまいそうだ。なにかもっと根本的な対策を考える時期ではないだろうか」と書かれていました。
そこで最近の大きな気候変動に対して何かできることはないのかというのであります。
「個人が何をしたらいいかは難しいし、わかりにくいが、何か対策をしなければ大きな被害や心の痛みを減らすことはできないと思う。」
というのであります。
そうして海原先生は「これからの世代のために何をすればいいか、根本的な対策を考えたり実行したりしないと手遅れになるのではと心配だ。」とコラム記事を結んでいました。
大きな問題であります。
ハチドリのひとしずくではありませんが、なにか小さなことでも出来ることはないかと考えさせれます。
その記事を読み終えて、災害も恐ろしいが、もっと恐ろしいものがあると思いました。
それは人の心であります。
『寒山詩』に
瞋は是れ心中の火、
能く功徳の林を焼く
菩薩の道を行ぜんと欲せば
忍辱して真心を護らん
という詩がございます。
瞋りは心の中の火であって、いくら功徳を積んできたとしても、それを一瞬のうちに焼きつくしてしまいます。
菩薩の道を歩もうと思うならば、忍辱して己の真実の心を大切に護ることだという意味です。
嗔りだけではありません。
貪欲もございます。
五欲とも申します。
眼耳鼻舌身体に触れるものに愛着を覚えるものです。
目に見えるものを色(しき)といいます。
男女の美しい容姿や、宝石やきらびやかな装飾品など、心を惑わすものへの欲です。
耳に聞こえるのが声(しよう)です。美しい声や、美しい楽器の音などへの欲です。
鼻で感じるのが香(こう)です。
芳香豊かなものや、香りなどへの欲です。
舌で感じるのが味(み)です。
酒や肉などの美味しい食物への欲です。
そして身体に触れて感じるのが触(そく)といいます。
手ざわりのよいものや、肌の感触への欲であります。
お釈迦様は五欲を抑制すべきことを、牛を飼う人が、杖をもって牛がよその畑に入ったりしないように制御するのと同じようなものだと喩えられました。
五欲を好き放題にさせておくことを戒められたのでした。
暴れ馬が、くつわもなにもつけないと制御できなくなって、人を落とし穴に落とすようなことになると説かれています。
そして、泥棒に財産を盗られるような被害は、自分一代のものであるけれども五欲の罪というのは、その災いは何代にも亘って続くのだというのです。
災害に遭うことも大変であります。
しかし、それは一代かぎりの被害であります。
それに対して、もし人が嗔の炎に燃えて罪を犯してしまったり、貪欲に負けて罪を犯してしまうようなことがあれば、その災いは何代にも亘って続くのです。
特に今はネットの社会ですから、ひとたび犯した罪はその子供や孫の時代になっても消えることがなく残るのです。
まさにお釈迦様が
「心の畏れるべきこと毒蛇・悪獣・怨賊・大火より甚だしく、越逸なること未だ喩えとするに足らず」と仰った通りなのです。
心の恐ろしいことは毒蛇や虎やライオンなどの猛獣や、盗賊や大火事よりも大きいというのであります。
それなのに、人間は愚かにも目先の欲に心奪われます。
それはあたかも、手に蜜の入った器を持って、蜜に気を取られているうちに足元の落とし穴に気がつかないようなものだというのです。
狂った象が、なんの制御もできないようなものであり、お猿が飛び跳ねて誰も止められないようなものだというのであります。
心は恐ろしいもので、大きな力を持っています。
これを嗔りや欲に使えば、人間として良い行いを失います。
しかし、この心を何か一つのことに打ち込めば、どんなことでもできないことはないというのであります。
ですから、仏道は如何に心を調えるかということに尽きるのであります。
横田南嶺