筑波を訪ねて
筑波といってもこの頃はつくば市と言うそうですが、私がお世話になっていたころは、まだ茨城県新治郡桜村でありました。
もっとも後半の二年間は、筑波にいるよりも東京の白山道場にいることの方が多かったと思います。
それにしても四年間はお世話になっていたのでした。
熊野の山々の中で十八歳まで育ちましたので、初めて出てきた関東であり、周囲に山がないというのが一番の違和感でありました。
見渡す限りの平野なのでした。
ただ筑波山が見えることが有り難く思ったのでした。
双峰と言いますが、二つの峰がくっきりと分かったものでした。
たしか大学の学園祭も双峰祭と言っていたと覚えています。
そんな筑波山ですが、四年間一度も登ったことがありませんでした。
なにせ当時は、自分の心は参禅にばかり重きを置いていたのでした。
公案という禅問答の修行をしていましたので、次の公案、次の公案と、その公案のことばかりが頭になって、とうとう筑波山に登ることも霞ヶ浦に行ったこともありませんでした。
しかしながら、四年間もお見守りいただいた筑波山に一度お礼の登山をしたいとかねがね思っていたのでした。
それでこの度ようやく念願のお礼登山をしてきたのでした。
筑波山は標高877 m(メートル)の山です。
筑波山神社の境内地で西側の男体山(標高871 m)と東側の女体山(標高877 m)とがございます。
雅称は紫峰(しほう)と言います。
なぜ筑波というのかについては、諸説あるようです。
そのひとつに、縄文時代の筑波山周辺には波が打ち寄せていたと考えられ、「波が寄せる場」すなわち「着く波」から、「つくば」になったというのです。
筑波山神社は、この筑波山を神体山として祀る神社であります。
登山コースはいくつかございますが、御幸ヶ原コースを登りました。
筑波山神社の西側から山頂ほぼまっすぐに登るコースです。
一時間半ほどで登れました。
歩いた距離は約二,五キロ、標高差は六一〇メートルほどであります。
実にほどよい登山でありました。
そうして筑波山神社と山頂の神社にお参りしてお礼を申し上げたのでした。
山頂近くに御幸ヶ原という開けた平地があって、そこに大きな歌碑が目にとまりました。
昭和天皇の御製が書かれていました。
昭和六十年(一九八五)四月二六日筑波山に行幸された時、詠まれた歌でありました。
はるとらのを ま白き花の 穂にいでて おもしろきかな 筑波山の道
という御製であります。
はるとらのおというのはお花のことです。
昭和六十年というと私が筑波にいたころなのであります。
行幸があったという記憶は全くありません。
申し訳のないことだったと思いました。
帰りに筑波山大御堂にお参りしました。
大御堂というのは、延暦元年(七八二)徳一上人が建立して、本尊千手観音菩薩を安置し、知足院中禅寺と号して始まったといわれます。
弘仁年間(810-823)には、弘法大師によって真言密教の霊場となったともいわれるのだそうです。
古いお寺であります。
明治五年に廃仏毀釈に遭い、廃寺となったそうです。
ただご本尊は信者によって手厚く護られていました。
昭和五年に再興され、護国寺の別院となり、令和二年二月、新しい本堂が完成したのでした。
真新しい本堂に千手観音さまがお祀りされていました。
坂東三十三ヵ所霊場にもなっていて、第二五番です。
それから、土浦市高岡にある法雲寺にお参りしました。
こちらもかねがねお参りしたいと思っていたお寺であります。
昨年の夏長野県飯山市で正受老人について講演した時に、正受老人についていろいろと調べるうちに、茨城県土浦の高岡に正受庵と呼ばれたお寺があり、それが今の法雲寺だということが分かりました。
正受老人が実際にその法雲寺正受庵を訪ねたのか、ご自身の庵を正受庵と名付けたのは、その法雲寺が影響しているのかどうか、資料がないので分かりません。
ただ調べるうちに、法雲寺というお寺が幻住派のたいへん由緒のあるお寺だと分かりました。
そしてまたなんというご縁なのか、その法雲寺のお弟子さんが、昨年の春から円覚寺に修行に来てくれていたのでした。
是非一度お参りしたいと思って、筑波山の登山と共にお参りさせてもらったのでした。
法雲寺の開山は、復庵宗己(ふくあん そうき(一二八〇~一三五八))禅師という、鎌倉時代後期から南北朝時代の方です。
常陸国の生まれです。
出家して松島円福寺(瑞巌寺)の空岩禅師に参じました。
延慶三年(一三一〇)数え年三十一歳の時に元の国に入り、天目山の中峰明本に参じたのでした。
中峰和尚がお亡くなりになるまで修行し、お亡くなりになっても三年間お墓のそばにお仕えして正中二年(一三二五)日本に帰りました。
中峰和尚という方は、一二六三年に杭州(浙江省)で生まれ、一三二三年にお亡くなりになっています。
高峰原妙禅師に参じて法を嗣がれました。
中峰和尚は定まった居処がなく、時には船中に、あるいは庵室に起臥して自らを幻住と称したのでした。
それが多くの僧俗から尊敬され江南の古佛と呼ばれました。
日本からも幾多の禅僧が元に渡り中峰和尚に参じたのでした。
復庵禅師もそのお一人なのです。
復庵禅師はその多くの日本人の中でももっとも長く中国に滞在し、中峰和尚に長く参禅されたのでした。
法雲寺の和尚さまからいただいた資料によれば、
「帰国後、復庵禅師は、蘇州の道場の兄弟子に宛て、次のような手紙を送っている。
『故郷に再び帰り、縁によってあちこちを歩き巡っておりましたが、丁度この頃、常州に一人、仏法に篤い信者がおりまして、丘の麓に小さな掘っ立て小屋を作り、お互いに修行するものが今では五十人もいるようになりました。
朝な夕な法を求めてくる人が絶えませんが、もっぱら中峰国師の教えにのみ従って修行しております。
まことに師の恩は遠大で、どのように御礼を申し述べたらよいのか分かりません』
ここでいわれる掘っ立て小屋は、正慶元(一三三二)年建立された、復庵禅師最初の根拠地「楊阜庵」 であり、仏法に篤い信者というのは小田家七代治久である。」
ということです。
更に「建武二(一三三五)年、中峰国師の十三回忌にあたる年、五十六歳の時に「楊阜庵」を「正受庵」と改めた」
ということなのであります。
この正受庵が、後に伽藍が整えられ、西天目山法雲塔院(中峰国師の墓所の名)の法雲をとって大雄山法雲寺と改められたのでした。
そんな復庵禅師の由緒ある幻住派の根本道場が法雲寺でありました。
明治維新の廃仏の影響もあって荒廃していたらしいのですが、先代のご住職と現在のご住職とで復興にご尽力されて来られました。
まず寺の山門の立派なことには圧倒されました。
その奥にかつて七堂伽藍を誇っていた跡があり、更に奥には方丈があります。
方丈はただいま本堂として使われています。
方丈から回廊を渡ると、先代の時に復興された正受庵があり、その奥には中峰和尚と復庵禅師をお祀りする法雲塔院がございました。
なかでも中峰和尚のお像は立派で、生けるが如きたたずまいでありました。
謹んでお香を捧げ読経礼拝させていただきました。
和尚様の話をいろいろ伺って、これだけの大寺院をお守りするご苦労を思いました。
私のところで修行している青年僧は、この大寺院を受け継いでゆくのであります。
そんな次第で、夏の終わりの一日、有り難き筑波山と法雲寺参拝でありました。
横田南嶺