飛び越えることだ
九月一日、関東大震災から九十九年となります。
仏教でいえば百回忌の年であります。
死者、行方不明者は十万五千人と言われていますので、どれほど大きい災害であったか察するにあまりあります。
円覚寺もあの震災で、ほとんどの建物が倒壊したのでした。
もう九十九年になると、実際に体験された方も少なくなっています。
私も二十数年前に、円覚寺で震災に遭った老僧に話をうかがったことがあります。
先月二十二日に半藤一利さんの本の紹介をしました。
その半藤さんの本のことを教えてくださった方からお手紙を頂戴しました。
ウクライナ出身の国際政治学者の方の講演を聴かれたそうなのです。
そこで、「ロシアはロシアの正義で戦っているので、話し合いや説得で戦争をやめる訳はない、軍事力で止めるしかない」というような内容で、その方はやりきれない思いがしたと書かれていました。
「この戦争は、自由主義と独裁国の戦争だから、自由主義国は負けてはいけない」というのです。
「本当にそれ以外に方法がないのでしょうか」とその方は手紙に書かれていました。
そして手紙には、『鈴木大拙一日一言』の中にある、
「飛び越えることが肝要だ。 同じ平面でなく、次元のちがった面に立つのである。」
という言葉を引用されていました。
その言葉のあとには、
「そういっても考え違いをする人が多いゆえ、とにかく、未知の境域へ驀進または侵入する覚悟で、全存在を投げ出すのである。
そうしなければならぬ時節が到来するのである。
思索家はいつも外側にいて、すなわち客観的態度なるものに、習慣づけられているので、「思い切った」という心になりえない。
そこに禅匠と一般哲学者との間に、越えられぬ障壁が立っている。」
と書かれています。
『東洋的な見方』にある言葉です。
大拙先生は、『東洋的な見方』に、そのあと
「蠅や蜂が、硝子窓に取りついて、もがいていると同じである。」
とたとえています。
これは分別の世界にいて、向こうの無分別の世界には飛び越えられないことを表しています。
どうしたらいいのか、実に難しい問題であります。
大拙先生の『禅』(筑摩書房)にある「愛と力」の中の、
「力に酔った人々は、力が人を盲目にし、しだいにせばまる視界に人を閉じ込めるものだということに気づかない。
こうして力は知性と結びつき、あらゆる方法でそれを利用する。
だが、愛は力を超越する。
なぜならば、愛は実在の核心に滲透し、知性の有限性をはるかに越えて、無限そのものであるからである。
愛なくしては、人は、無限にひろがる関係の網、すなわち実在を見ることはできない。
あるいは、これを逆に言えば、実在の無限の網なくしては、真に愛を体験することはできない。
愛は信頼する。つねに肯定し、一切を抱擁する。
愛は生命である。ゆえに創造する。
その触れるところ、ことごとく生命を与えられ、新たな成長へと向かう。
あなたが動物を愛すれば、それはしだいに賢くなる。
あなたが植物を愛すれば、あなたはその欲するところを見抜くことができる。
愛はけっして盲目でない。それは無限の光の泉である。
まなこ盲、みずからを限定するがゆえに、力は実在をその真相において見ることができない。
したがって、その見るところのものは虚妄である。
力それ自体もまた虚妄である。
そこで、これに触れるものも、またすべて虚妄性と化する。力は虚妄の世界にのみ栄え、かくて、偽善と虚偽の象徴となる。」
という文章を改めて読み返しています。
ガラスの内側で、苦しんでいる蠅や蜂のようにいつまでも、向こうの世界に飛び越えられないのは悲しいものです。
『禅』の中の「禅指導の実践的方法」で大拙先生は、
「禅の哲学のいうところによると、われわれはあまりにも因襲的な考え方、すなわち、徹頭徹尾二元的な考え方のとりこになっている。
「融通」ということはまったく許されず、われわれの日常の論理では、対立者の融合はけっして行なわれない。」
と指摘されています。
それに対して
「ところが禅は、この思想の仕組みをひっくり返して、新しいものと取り代える。
そこには論理もなければ、観念の二元論的配列もない。」
というものです。
この分別の世界、力の世界、争いの世界に固執するのではなく、無分別の世界、愛の世界へと飛び込むことが大切なのだとしみじみ思います。
もっとも「飛び込む」といっても私たちのこの世界と隔てて大きな壁があるわけではありません。
あるとしても、それは自分で勝手に作り上げたものでしかないのです。
作り上げた壁のようなものが、幻の如きものだと気がつけば、本来壁も隔てもなかったと気がつくのです。
ガラス窓などもともとないのに、あるように思って超えられないと右往左往しているだけなのです。
ただ、この現実がすべてであると思い込んでしまっているので「飛び込む」くらいの覚悟がないといけないという意味であります。
本来は無分別の世界に生まれて、愛の世界に育まれて生きてきたのですから、容易に乗り越えられるはずなのです。
「飛び込むことだ」という表現をなされた大拙先生のお心を思います。
横田南嶺