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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.08.24
今日の言葉

中

毎日新聞に「毎日ことば」という欄が一面にございます。

先日十六日に第398回、「熱中症の「中」由来は…」という記事がございました。

この内容については、その日の毎日新聞の紙面の中から探すのであります。

すると「解説」には「「あたり」に要注意」と書かれていて、

更に「熱中症は何かに熱中する場合とは意味が違います。

この「中」は的中、食中毒と同じく「あたる」という意味の使い方です。

現在「的にあたる」は「当たる」と書きます。これに対し「暑気あたり」などは「当たり」とせず新聞では仮名書きです。」

とございます。

確かに、熱中症はなにかに熱中するという意味ではありません。

そこで、「熱中」を『広辞苑』で調べてみると、

「物事に心を集中すること。夢中になってすること。また、熱烈に思うこと。」

という意味があり、「遊びに熱中する」という用例が示されています。

では「熱中症」はというと、

「高温や多湿の環境下で起こる障害の総称。

塩分やミネラルの不足による熱痙攣、脱水症状を起こした熱疲労、体温調節機能が失われた熱射病の類」

と説明されています。

それでは、「中」とはどういう意味か調べてみました。

『広辞苑』には、

❶一定の区画・範囲の内。「外」に対する。
①内部。うち。

②心の中。胸中。

❷一つづきの物事の両端でない部分。三つのものの中央。
①中部。中央。

②中等。中位。

③多くの物事のうち。

④二つの物事の中間。間。

⑤ある事が起き、まだ終わらない間。ある状態にある、その間。

⑥(多く「仲」と書く)男女・夫婦・親子・兄弟・知人等の人間関係。間柄。

⑦(中国の「伯仲叔季」の訓からか)三人以上の兄弟姉妹の2番目。

⑧月の中旬。

等の意味がございます。

同じ中という字を書いても「ちゅう」と読むと、

①まんなか。

②なか。内部。ある範囲のうち。

③物のあいだ。

④なかほど。
㋐時のなかごろ。

㋑かたよらないこと。

㋒よくもなく悪くもないこと。優劣のないこと。

⑤〔仏〕有と無、苦と楽などの二元対立に陥らないこと。中道。

⑥名詞に付けて接尾辞的に使う。
㋐なかまうち。

㋑ある範囲の全体のうち。「十中八九うまくゆく」などがそうです。

㋒そのことが現在行われていることを表す。その間。

⑦二十四節気のうち、雨水・春分・穀雨など、一つおきの節気、すなわち一年を12カ月に分けた各月の後半の称。中気。

⑧中国の略。

⑨中学校の略。

という意味が書かれています。

注目するのは、五番の
仏教語として「有と無、苦と楽などの二元対立に陥らないこと。中道。」というものです。

中道は何かというと、

「①行程のなかほど。半途。中途。

②極端に走らない中正の立場。

③〔仏〕二つの極端(二辺)すなわち有・無、断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場。また、快楽主義と苦行主義の両極端を離れること。 →中論

という解説がございます。

「中論」という言葉がありましたので、これも調べてみると、

「仏書。竜樹の主著。

縁起・空性くうしょう二諦説などを明らかにし、大乗仏教の空思想を理論的に基礎づける。」

と書かれています。

さて、この「中」ということは、仏教の大事な教えでもあります。

更に岩波書店の『仏教辞典』で調べてみましょう。

「中」とは、

まず「二分法によって分けられたそのどちらにも属さず、それを超越したありかたを示す。」

と書かれています。

二分法というのはあまり聞き慣れない言葉です。

どういうことかというと、

「二分法には、たとえば有(う)と無(む)、常(じょう)と断(だん)、苦(く)と楽(らく)などがあり、通常そのどちらかが一つの極端(辺(へん)という)にまで進み、しかもそれに固執する。」

と書かれています。

「有」か「無」か、どちらかに偏るのがお互いであります。

「断」というのは、「断見」ともいって、人が死んだらもうなにも残らないという考えです。

その逆が「常」で「常見」ともいって、人が死んでもそのあとに自我が永遠に残り続けるという考えであります。

「苦」は、苦行など苦しみに偏ること、「楽」はその反対に快楽に偏ることです。

通常どちらかに偏りがちなのでお互いであります。

しかし、「仏教はそれを批判して、この<中>を繰り返し説く。

<中>は仏教全体を一貫している。

同様に孔子やアリストテレス、その他の多くの哲人や賢者たちによっても、<中>が尊ばれ説かれたのに対応する。」

と解説されています。

更に『仏教辞典』には「初期仏教」の教えとして、

「釈尊はもと豊かな王族の家に生まれ楽に満ちた青春を送り、やがてそれから出家すると、厳しい苦行に六年間も励み、しかしそれも捨てたあとに、瞑想のうちに悟りを開いた。

その経歴もあって、最初の説法であるサールナートの鹿の園(鹿野苑)における初転法輪には、<中道>を掲げる例が多い。

これは通常<不苦不楽の中道>と称され、また<道>は向かって踏むに由来して、実践的色彩が濃い。

また釈尊の当時は新しい自由思想家が輩出して、一方に快楽主義や唯物論が、他方に苦行偏重や禁欲主義があり、その両極端への批判も、中道説には込められていたと推察される。」

と書かれています。

苦行偏重や禁欲主義もよくないし、そうかといって快楽主義に陥るのもよくありません。

もともとは、これら両方の極端から離れることを説いたものでありました。

後に竜樹が『中論』を著して、「中」の考えが一層深まりました。

『仏教辞典』には、

「<縁起>と<空>と<中道>とをほぼ同義語として扱い、釈尊の中道への復帰を含意しつつ宣言した。」と書かれています。

縁起というのは、様々な原因や条件によってものは成り立つのだということであり、それ故に「無自性」といって、固有の実体を持たないのであります。

その固有の実体を持たないことを「空」というのであります。

それは「中」と同じ意味を持つのであります。

特に天台の教学では、空、仮、中の三諦(三つの真理)を説くのであります。

「あらゆる存在は実体のない空であるとする否定面の<空諦>」と、

「実体はないが縁起による仮(かり)の存在とみなす肯定面の<仮諦>と、

空諦・仮諦のいずれにも偏せず、高次に統合した真理である<中諦>を言うのであります。

すべては空であるとみて、仮の現象に過ぎないとみることによって一切のとらわれを離れて、その上で、すべては真実の姿であると見ることが中なのであります。

円頓章という教えには、

一色一香、中道にあらざることなしと説かれています。

現実に溺れることもなく、空に陥ることもなく、この現実の世の中にありながら、しかも執着せず、かたよらずこだわらずに一つ一つのものごとに精一杯向き合い、それらすべて中道なのだという教えなのです。

ただ禅では、あまりその途中の細かな理論を省いて、即今ただいま、そのときその場を精いっぱい生きるという結論をそのまま教えるのであります。

 
横田南嶺

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