仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息をひきとる
私がまだ修行道場で修行していた頃、この日には、朝比奈老師のもとで修行された和尚様方が全国から集まって法要を営み、そしてお昼にうどんを出していました。
ちょうど暑い盛りで、うどんに添える野菜の天ぷらを沢山揚げていたことを思い起こします。
修行道場では、ガスを使っていませんので、天ぷらをあげる時に火加減が難しいのです。
汗を拭きながら、野菜の天ぷらを揚げていたころを今となっては懐かしく思います。
もう四十三年も経つと、この日にお参りになる方もほとんどいなくなりました。
ご命日の法要も修行道場で修行僧たちと共に早朝にお勤めするのみであります。
それでも朝比奈老師のことを思い起こし、その著書などを拝読し直します。
私が高校時代に愛読していたものです。
朝比奈老師のことはたびたび書いていますが、改めて朝比奈老師の名著『仏心』(春秋社)から引用します。
「私は六人兄弟の末っ子であった関係もありますが、両親に早くわかれました。 四歳の十月母に、七歳の三月父に。
少年の時、両親のないことはまことに淋しいもので、学校から帰っても、家族のいないガランとした家は、入るのがいやなくらいでした。
それに子供の頭は妙なところがあるもので、友達の両親のそろっているのを見ると、自分の両親もどこかにいて、いつかひょっこりと出てきて、〝大きくなったなあ”といって頭をなでてくれることがありはしまいかと、ときどき思うのでした。
ある時、姉たちが巫女(いちっこ)を招いて、両親の霊を呼んだことがありました。
その折りの父や母の言葉に、幼いそなたたちをおいて死んで、始終心にかかり、つねに草葉の蔭から見守っている、という意味のことがありました。
私は草葉の陰からという言葉を、そのまま受け取り、そうすると父や母は、なにか虫のようなものになっているのではないかと、墓参りしてあたりの草むらを注意して見たことがあります。
このぼんやりとした、人の死後は?という問題が、はっきり私の頭にのぼって来たのは、八歳の春、釈尊のおかくれになった二月十五日の涅槃会に、お寺に参った時からです。
私の家の菩提所は臨済宗です。 友だちとお参りして、はじめて釈尊の涅槃図を拝みました。
ご承知のように涅槃図は、釈尊のおかくれの時の光景を描いたもので、中央に釈尊がおやすみになり、それを人間のあらゆる階層の人々、鳥や獣、虫けらの類までが集まってとりまき、それぞれはげしい表情で歎き悲しんでおり、中には悶絶したかと見える人さえいる。
しかしそれでいて、どこか落ちついた、静かな平和な気分の漂った、すばらしい宗教画であります。
お寺のはこの頃拝んでも、その印象どおり立派な図ですが、その時の私には、生まれてはじめて見た美しい荘厳な絵で、ただ圧倒されたような気分で拝みました。
和尚さんに、これはどういう絵ですか、と聞くと、これはお釈迦さまがおかくれになったところだ。
なぜこんなに大勢の人が泣くのですか?
お釈迦さまは世界でいちばん知恵のある、いちばんなさけ深い方であったから、みんな悲しんでいるのだと。
私はお釈迦さまはえらいとはきいたが、こんなに人間ばかりでなく、動物にまで慕われるとは、大した人があったものだと驚きました。
しかし、またよく見ると、おなくなりになったというお釈迦さまは、太った肉づきのよい、健康な人がうたた寝でもしたように描かれていて、おかくれになった人のようなさびしさはありません。
私は和尚さんに、お釈迦さまはおかくれになったというのに、死んだような顔をしていないではありませんか、というと、うん、それはお釈迦さまはおかくれになっても、本当はおかくれになったのではないから、死んだように描いてないのだと。
この死んでも本当は死なない、という言葉は、私を驚かせました。
お釈迦さまは特別えらい方であるから死んでも死なないのだろうか、それとも私の父や母も死んでも死なないのだろうか。
これが私の疑問になりました。」
というのであります。
そんなことから、
「和尚さんは、私が小学校を卒業すると、お前は体が弱くて百姓には向かない、学問が好きなようだから坊さんにならないか、とすすめてくれました。
私には僧侶というものがよくわからないので、決心がつきませんでした。
それから一年たったお盆に、和尚さんから、私の弟子になどというのではない、本寺の興津清見寺の方丈さんにお話したら、方丈さんがわしの弟子にもらいたいといわれるから、とまたすすめられました。
清見寺の方丈さんといえば、えらいお方と思っていましたから、ついに決心して、その十月、清見寺へ上り、小僧になりました。」
と書かれているように、清見寺の坂上真浄老師のお弟子になられたのでした。
そして妙心寺の修行道場に入門して、この死の問題の解決を得られたのでした。
そのことを朝比奈老師は、
「仏心は生を超え死を超えた、無始無終のもの、仏心は天地をつつみ、山も川も草も木も、すべての人も自分と一体であること、しかも、それが自己の上にぴちぴちと生きてはたらいて、見たり聞いたり、言ったり動いたりしているのだという、祖師方の言葉が、そのとおりであるということを知ったのであります。」
と説かれています。
その後の更に修行を重ね、学問の研鑽をなされて、鎌倉の浄智寺の住職になり、やがて円覚寺の管長になられたのでした。
朝比奈老師は
「私は近年誰にもわかりやすく、仏心の信心を説いております。
人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引きとるので、その場その場が仏心の真只中であります。
人はその生を超え死を超え、迷いをはなれ、垢れをはなれた仏心の中にいるのだという、人間の尊いことを知らないために、外に向かって神を求め仏を求めて苦しみ、死んだ後のことまで思い悩むのですが、この信心に徹することができたら、立ちどころに一切解消であります。
私の上でいえば、私のおろかな父も母も死後は、釈尊も達磨も、同じく仏心の世界、永遠に静かな、永遠に平和な涅槃の世界にいられるのであって、修行した人も修行しない人も、その場に隔てはないのであります。
これは私が少年の時、両親の死後どうなったであろうという問題が縁となってついに僧侶となり、禅を中心として修行し、また仏教諸宗について研究し、六十余歳の今日になってたどりついた結論であります。」
と分かりやすく説かれています。
高校生の頃朝比奈老師の本を夢中になって読みふけっていて、僧侶となって修行して今やその朝比奈老師のお寺の管長になっているというご縁の不思議を思う毎年のご命日なのであります。
横田南嶺