雲と水
大灯国師の厳しい言葉が綴られています。
その後半部分には、たとえ一人であっても、建物も無いような屋外で、わずかの茅で雨露を凌ぐような暮らしをしていても、脚の折れた鍋で野菜の切れ端を煮て暮らすような中でも、ひたすら自己を究明しようとするならば、その人こそまことの我が弟子と言えると述べられています。
これは、唐代の禅僧薬山惟儼禅師のことを念頭に述べられていると思います。
薬山禅師は、唐代の禅僧達の中でもとりわけ純粋に禅の道に生きた方ということができます。
禅僧の理想像を表しています。
石頭禅師について修行を終えてから、澧陽の山中に入り、はじめは農家の牛小屋で坐禅していたそうです。
農家の人達は気味悪がって薬山禅師に出て行って欲しいと頼みました。
しかし薬山禅師は動きません。
とうとう農家の人達はその牛小屋に火をつけて燃してしまいました。
よほどいやだったのでしょう。
これであのお坊さんもいなくなるだろうと思ったことでしょうが、なんと薬山禅師は燃えつきた小屋の跡地で端然と坐禅していたのでした。
これには農家の人達もあきらめて、その地を坐禅堂に寄進したという話です。
そんな薬山禅師のもとに修行僧が集まってきて、いつしか禅の修行道場となりました。
修行僧も多く集まったので、ある日のこと、薬山禅師から皆に説法してもらいたいと、修行僧の頭にあたる者がお願いしました。
ようやく引き受けていただいたので、皆を集めました。
ところが薬山禅師は皆の前に出て、一言も発すること無く壇を降りてしまわれました。
「どうして何もお説法下さらないのですか」と問うと、薬山禅師は「お経の解説ならお経の専門家がいる。仏教の論書のことなら、その専門家がいる。禅僧のワシが黙っていて何がいけないのか」と叱咤したのでした。
禅僧は古来「黙によろし」(黙っているのがよい)とされているからなのです。
また薬山禅師は、いつも修行僧の皆とは共に食事せずに、一人別に煮炊きして食べていました。
しかも人一倍元気で血色もよいので、不審に思ったある修行僧が、禅師は何を召し上がっているのか、こっそり煮炊きしている鍋の中をのぞいてみました。
すると驚いたことに、鍋の中には道場でも食べられずに捨ててしまっていた、野菜や菜っ葉の切れ端が炊かれていたのでした。
それを見て一同愕然としたというのです。
修行道場では、食べ物を大事にしていることは言うまでもないのですが、それでも野菜の切れ端などは出てしまいます。
薬山禅師はそれらをひそかに集めて、誰に言うこともなく自ら召し上がっていたという話なのです。
後に朗州の長官である李翺(りこう)は、薬山禅師のうわさを聞いて是非お目にかかりたいとお願いしましたが、禅師は山を出ることをしません。
やむなく李翺が自ら山に入ってお目にかかりますが、禅師は手に経巻を持ったまま一顧だにしなかったのです。
おそばに仕える僧が「長官がお見えです」と伝えました。
せっかちな李翺は「会ってみるとうわさほどではありませんな」と些か腹を立てて言われました。
禅師はそこで「長官どの」と呼ばれました。
李翺は思わず「はい」と答えました。
禅師は「あなたは耳を尊んで目を軽んじるのか」と言いました。
うわさを重んじて実際に目で見ることを疎かにするのかということです。
しっかりよく見ろと言いたいのでしょう。
そこで李翺は態度を改めて、道とは何ですかと問いました。
禅師は、
「雲は天に在り、水は瓶に在り」と答えました。
更に李翺は、仏道修行の基本である戒定慧(戒を守ることと、禅定を修めることと、智慧を身につけること)を問いましたが、禅師は、そんな役にも立たぬ家財道具など私のところにはないと一蹴しました。
禅師はある晩、山に入って静かに歩いていました。
雲のすき間からお月さまが現われたのを見て、大きな声で笑いました。
その声が九十里ばかりにも響いたといいます。
翌朝何事かと思って村の人が集まると、寺の僧が、昨夜薬山禅師が山頂で大笑いしたのだと答えたのでした。
九十里といいますが、日本の単位とは異なって、一里は五百メートルあまりだといいますが、それにしても、村の人たちが翌朝驚いて来るというのですから、どれほどの大笑いであったか察するにあまりあるものです。
大ぞらを 静かに白き 雲はゆく しづかにわれも
生くべくありけり
と相馬御風は詠いました。
雲は天に在り、水は瓶に在り、雲と水とで雲水と申します。
禅の修行をする僧を雲水と呼ぶようになっています。
行く雲の如く、流れる水の如く、行脚して修行したからであります。
『坂村真民全詩集第二巻』に「雲と水」という題の詩があります。
1
動いてやまぬ
雲と水
流転生死の
この身ゆえ
切なき心
寄するなり
故郷は遠し
父母は亡し
身は雲水の
旅なれば
花咲く野辺に
夢を追う
2
雲が動くのは
淋しいからなのでしょうか
嬉しいからなのでしょうか
水が音たてるのは
悲しいからなのでしょうか
楽しいからなのでしょうか
彼等曰く
人間なんて馬鹿なことを考えるものだね
横田南嶺