いのちの意味
先代の管長であった足立大進老師は、川柳と共にこの「女の気持ち」をよく法話に引用されていました。
「女の気持ち」は、時に「男の気持ち」となることもございます。
毎日新聞の今年の一月十三日「男の気持ち」は「歌に励まされ」という題で、栃木県の七十代の男性が書かれていました。
奥様が一昨年の夏に入院されて余命宣告を受けられたそうなのです。
「トイレ以外はほぼ寝たきりの状態だ」と書かれていました。
「そんなとき、妻が大好きな歌の指導を受けていた合唱団の先生が、CDを持って突然来訪した。
入っていたのは、加藤登紀子さんの作った「今あなたに歌いたい」。
以前、島津亜矢さんが歌ったこの曲が心に迫り、妻が感動で涙したことが忘れられない。」と書かれています。
そんな思い出のある曲を合唱団の先生が独唱され、ピアノの伴奏をつけて録音されたのでした。
「どれだけの時間が費やされ、心が込められたことだろうか。妻は涙を浮かべて繰り返し聴いている。
弱っているときに受ける好意のありがたさをしみじみ感じる毎日だ。」
と書かれていました。
「何とか新しい年を迎えることができた。少しでも長く生き抜いてほしい」と書かれていたのですが、その奥様がお亡くなりなっていたことを、先日八月十二日の「男の気持ち」で知りました。
「本欄に今年の正月、妻の病状が重篤でなんとか新年を迎えたものの明日をも知れず、一日でも長く生きてほしい、と投稿して7カ月余がたった。
妻の初盆が間近だ。投稿はたまたま妻の葬儀の日に掲載された。これも何かの縁だろうか。」
と書かれています。
「ある程度予想はしていても、人の死は誰にとっても重い。」と書かれているように、いくらやがて別れは来ると分かってはいても、身近な人が亡くなるということは悲しく辛いものであります。
「亡くなった人は人々の記憶の中に移り、やがて忘れ去られるのだろう。
それも摂理だ。無駄な抵抗とわかっていても少しでも長く記憶に残るように、妻の生きた証しを小さなフォトブックに集結させようと今、作成に励んでいる」
と書かれているのが心に残ったのでした。
哲学者の西田幾多郎先生は生涯に五人の子供を亡くされています。
三十七歳の折りに、次女を五歳で亡くし、同じ年に生まれた双子の五女を生後一ヶ月で亡くしています。
「ただ亡児のおもかげを思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。
若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。
しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。
人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。
時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
…折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。
この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである」と「我が子の死」という文章にございます。
深い悲しみをうかがうことができます。
坂村真民先生は三十二歳の時にはじめて子供を授かるのですが、その女の子は死産でありました。
真民先生ご夫婦は、その子供に「茜」という名前を付け、それ以来毎年この「茜ちゃん」の誕生日であり命日である三月八日を大切な日として、過ごしてきたのでした
真民先生夫婦にとって、この茜ちゃんは家族の「守り神」としても大切な存在であり、色んな場面で真民先生一家を救ってくれたのです。
その三月八日を詠った詩があります。
三月八日
三人の娘を嫁がせ終わって
わたしたち二人の思い出は
今も賽の川原で遊んでいる
茜のことにおよぶ
きょうは天気がいいので
歩いて四十八番札所の
西林寺にお参りする
茜よ
お前の命日の三月八日は
観音日であるし
十一面観世音菩薩と刻んである
梵鐘を二人で撞いて
お前の冥福を祈る
乳も飲まずに
あの世に行ってしまった
茜よ
お母さんの撞く
この鐘の音を聞いてくれ
そしてわたしたちがくるまで
お地蔵さまと一緒に
遊んでいてくれ
という詩であります。
先日とある講演会の折のこと、ある青年が、我が子を幼くしてなくしたらしく、その遺影をそばにおいて聴講されていました。
質疑応答の時間で、生まれてわずか数歳で亡くなる子が生まれた来た意味、そしてそんな子が亡くなる意味は何かという質問を受けました。
真摯にいのちに向き合う姿に心打たれました。
一途な瞳を見ると、簡単に答えることはできませんでした。
「生まれたこと自体に意味がある」「生きていのちあることが意味だ」といつも話をしていますが、簡単に言葉にすることはできずに、しばし無言でいました。
そして、ようやく出た言葉が、すでに答えは出ているはずですというものでした。
その子のことを今を遺影を抱いているように大切に思っているということは、大切ないのちだという意味がそこに現れています。
意味は、人の心がつくるものだと思います。
大事に思えば大事な意味が現れます。
そこから生きる力を得てゆけば、生きる力になるという大きな意味が出てきます。
意味は作り出すものだと思うのであります。
亡き人の事を思うと、思うだけで大きな意味があるものです。
折に触れて、思い出し、供養をするのは大きな意味があるのです。
横田南嶺