煩悩を学ぶ
一字一字注意しながら書いていたのですが、どういう訳か、四弘誓願の二句目を書こうとして「煩悩無盡誓願断」と書くところを、最後の一字を「學」にしてしまっていました。
「煩悩無盡誓願学」になっていたのでした。
「しまった」と思って、書き直したのですが、煩悩は尽きることはないけれども、誓って学ぼうというのも悪くないなと思ったのでした。
煩悩を断とうというのも、これもまた人の傲りではないかとも思いました。
煩悩なければ生きることもできません。
どのような煩悩をお互いがもっているのかを、謙虚に真摯に学ぶことが大事だなと思ったのでした。
毎日新聞の八月十二日の川柳欄に、
席ゆずり車両を移るニキビの子
という一句があって、微笑ましく思いました。
ちょうど青山俊董老師の『さずかりの人生』に同じ話が載っていました。
一部を引用させてもらいます。
「私の心の奥深くにやきつけられた忘れられない風景がある。
混雑した電車に乗っていた。
電車が一つの駅に止まり、老婦人が乗ってきた。
私の横に座っていた青年がサッと立ちあがり「どうぞ」と席を譲った。
遠慮する老婦人に青年は「降りますから」といって電車を降りた。
老婦人はホッとした様子で腰をかけた。
しばらくしてふと隣の車両を見ると先ほどの青年が人混みにまじって立っているではないか。
私はハッとし、同時に青年の心づかいの深さに感動した。
席を譲ってくれた人が、自分の前でつり手にぶらさがりながらゆれていたら、何となく心苦しいではないか。
そういう思いをさせないために「降りますから」とさり気なく云って電車を降り、すばやく隣の車両に乗りかえたのである。」
という文章であります。
こういう心遣いができる青年というのは、いつの時代になってもいるものなのです。
青山老師は、インドの詩人タゴールの言葉を紹介されていました。
「私があなたを愛させていただくことが、あなたの心のお荷物になることをおそれる」というのです。
よいことをしてあげたとしても、相手の重荷になるようでしたら、考えものなのです。
相手に負い目を負わせることも同じであります。
目立たぬように、際立たぬようにさりげなく行うのがいいのであります。
そこで青山老師は、『瑜伽論』で説く八憍について説かれています。
八つの橋りなのであります。
私たちは気がつかないうちに、憍りの心を持っているのです。
こういう煩悩を持っていることを、謙虚に学ぶことが大切であります。
八憍とは、「無病憍」「少年僑」「長寿憍」「族姓憍」「色力憍」「富貴憍」「多聞憍」「善行憍」の八つなのです。
無病僑とは、健康への憍りであります。これは病者への思いやりに欠けるのであります。
青山老師はお元気な頃に、介護を受けている方をお見舞いしたことを、『あなたに贈る人生の道しるべ』(春秋社)に書かれていました。
「自分で食べることも用を足すこともままならない友の前に立って、私は身のおきどころのない思いをした。
さいわいに健康に恵まれ、日本中を駆けずりまわっている私の姿を、友はどんなにか羨ましく思い、同時に何もできなくなっている自分のみじめさを、いやというほどかみしめているであろうと思うとき、健康であることが、 病む友に罪を犯しているように思え、言葉もなく友の手を握るばかりであった。」
と書かれています。
少年僑は、若さへの憍りであります。
青山老師は同書で、
「若き日、ツルゲーネフの「若者は若いというだけで老人に罪を犯している」という意味の言葉に出合い、当惑したことを今も忘れない。今、八十の坂を越える齢となり、この言葉の心が納得できるようになった。」
と書かれています。
若いというだけで憍りなのです。
逆に長寿僑という長寿への憍りというのもあります。
青山老師は
「経験に無駄はない。長生きするほどに経験も豊かになり、人生の掘り下げも深まり、遠い展望もできるようになるものである。
深まるほどに、遠い展望ができるようになるほどに、おのれの貧しさに気づき謙虚になるというのが、ほんとうの姿であろう。
が、下手な年のとり方をすると、それが憍りとなる」と戒められています。
族姓憍は、氏素性への憍りです。
自分の生まれのよいことを鼻にかけていることを言います。
お釈迦さまは、人は生まれによって尊いのではなく、どこまでも行いよって決まるのであると説かれました。
色力憍は、色欲の憍りであります。
富貴憍は、財力の憍りです。
多聞憍は、博学多オへの憍りであります。
多くの教えを聞いて学べば学ぶほど、己の至らなさに気がついて謙虚になるところが、知らぬうちに、多く学んだことが憍りとなって、まだ学びの浅い人を見下してしまいます。
善行憍は、善いことをしたという憍りであります。
これなどはやっかいなものです。
青山老師は唯識の大家であった太田久紀先生の教えを説かれています。
それは、善いことをするにあたっての二つの留意点です。
一つは善のおしつけ、善意のおせっかいによって相手を傷つけないこと。
それから二つ目は善の行為の心の底に「私が」という利己の心がひそんでいないか、ということなのであります。
こういう風に如何に私たちの心の奥深くに煩悩が潜んで居るかを常に学ぶことが大事だと思います。
煩悩無盡誓願學と書き損じたことから学びました。
横田南嶺