吾が心、秋月に似たり
私が担当しているのは、「心に禅語をしのばせてー生きるための禅の言葉ー」というページであります。
もう第二十一回になっています。
今月取り上げた禅語は、
吾が心、秋月(しゅうげつ)に似たり
というものです。
私の連載の数ページ前には、金澤翔子さんの書とお母様の金澤泰子先生の文章が載せられています。
翔子さんは、今月
「はるかに照らせ 山の端の月」を
ゆったりとした筆遣いでのびのびと書かれています。
最後の「月」の一字は、実に空中に月が浮かび上がるような趣であります。
これは、
「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」
という和泉式部の有名な和歌の下の句であります。
金澤翔子さんのゆったりとした筆遣いに比べると、私の書はどうも窮屈な感じがしてしまいます。
「吾が心秋月に似たり」は、『寒山詩』にある一句です。
『寒山詩』は、中国の唐代にいた寒山の詩を集めたものです。
吾が心秋月に似たり
碧潭清うして皎潔たり
物の比倫に堪えたるは無し
我をして如何が説かしめん
という五言絶句の中の一句です。
筑摩書房の『禅の語録13寒山詩』にある、入矢義高先生の訳を引用しますと、
「私の心は秋の月がエメラルド色の深淵に照り映えて、清らかにもけざやかに輝くにさも似ている。
この心に比較することのできる何物も存在しないのだから、私に心のありさまを説明させることが誰にできようか。」
というものであります。
私たちの本来の心は、秋の月のように澄みきったものです。
ところが現実の私たちの心には、煩悩と呼ばれる汚れが付いてしまっています。
それは、必要以上に欲しがる貪欲や、気に入らないものに腹を立てて排除しようとする瞋恚や、真理を知ろうとしない愚かさなどであります。
この句から学ぶことは、私たちの心がたとえどんなに煩悩の雲に覆われているように見えたとしても、お月様は汚れることがないように、お互いの心の本体も決して汚れるものではないということです。
そこで、私は、
「静かに坐って、自分の心の波を穏やかにして、心を見つめてみましょう。
お互いが本来もって生まれた心は、秋の月よりも、もっと清らかなものだと気がつくはずであります。」
と書いたのでした。
道元禅師のお師匠様である天童如浄禅師は、
「参禅は身心脱落なり。焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、秖管打坐のみ」と示されています。
只管打坐というのは、ただ坐禅するのみということです。
身心脱落というのは、どういうことかとお示しくださいとお願いすると、如浄禅師は、「身心脱落とは坐禅なり、秖管打坐の時、五欲を離れ五蓋を除くなり」と示されています。
私たちが学ぶ禅の教えでは、心がそのまま仏であり、煩悩を除いてはじめて仏の心が現われるというのではなく、すべてまるごと仏の心だと説くのであります。
しかしながら、そのように受けとめることができるようになるには、やはり修行が必要であります。
如浄禅師が示されたように、「五欲を離れ、五蓋を除く」努力をするのであります。
これは『宝慶記』に書かれていることです。
『宝慶記』というのは、道元禅師が宋の国にわたり如浄禅師に師事して指導を受けられた時の覚書であります。
「五欲」とは何かというと、目、耳、鼻、舌、身体に感じる欲望であります。
目できれいなものを見たい、耳で心地よい音を聞きたい、鼻でいい香を嗅ぎたい、舌でおいしいものを味わいたい、身体で心地よいものに触れたいという欲望であります。
または、食欲、睡眠欲、色欲、財産欲、名誉欲の五つを指す場合もあります。
食欲や睡眠欲は生存するためにはやむを得ない一面もあります。
また色欲、性欲というのは、種の保存のためには必要でもあります。
財産欲や名誉欲というのは、人間特有の欲であります。
この二つの欲が、私たち人間を不幸にしてしまうことが多いのです。
「五蓋」というは、正しい心に蓋いをして隠すという意味です。
貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑の五つです。
第一は貪欲、必要以上に物を欲しがることです。
瞋恚は、怒り腹立つことです。
睡眠は、身心が重苦しく、心が萎縮してしまうことです。
掉悔は、落ち着かないことで、心が乱れて騒ぐということ、 散慢になるということです。
疑というのは、疑いやためらいであります。
大法輪閣から出版されている橋本禅巌老師の『宝慶記講話』には、
「五欲と五蓋を心の中から除けば、極楽世界がおのずと現れてくる。
坐禅をすれば、宇宙全体が仏様になる。
山も川もみな智慧を授けてくれるものとなる。 力を貸してくれる。
一切が解決する。
これが祖師伝来の法でありまして、如浄禅師がその生き証人なのであります。」
と説かれています。
五欲五蓋を除くという教えは、大乗小乗仏教の教説なのではという問いに如浄禅師は、大乗小乗の経典を嫌ってはいけないと示されています。
五欲や五蓋をそのまま肯定して、煩悩即菩提という教えもあるのですが、それは修行した上でのことであって、やはり仏さまの教えを学ぶものは、一つ一つ五欲を離れ五蓋を除く努力をするべきなのであります。
そのような修行を経た上で、心がそのまま仏である、秋の月のように清らかなものだと受けとめることができるのです。
横田南嶺