いつもほほえむには
その住職である阿純章さんとは親しくさせてもらっています。
このYouTubeで対談をさせてもらったこともございます。
夏のご挨拶を兼ねて拙著をお送りしたところ、ご丁寧なお礼状と共に、本や冊子などをたくさん送っていただきました。
まさに「海老で鯛を釣った」とはこのことかと思うほどでした。
天台ブックレットという冊子に、阿さんが執筆されていました。
題は「共に病み、微笑んで生きる」というのであります。
早速拝読すると、まさに「共に病む」体験が書かれていました。
なんとこの春、阿さん一家がコロナに感染したというのです。
阿さんの文章が素晴らしいので、一部を引用させてもらいます。
「我が家には3人の子どもがいる。
まだ小さいので家族みんなで顔をくっつけ合ったり体を寄せ合ったり、おんぶに抱っこに添い寝にといつもべったり。
親として一番幸せな時かもしれない。
しかしコロナ禍において、この密状態の一家団欒ぶりがかえって仇となってしまった。
4月に入り、息子が小学校に入学した矢先に40度近い高熱を発し、 地元のクリニックで検査をしたところ新型コロナウイルス陽性と判明した。
期待に胸を膨らませていた新生活がスタートしたのも束の間、そのまま連休明けまで出席停止となってしまった。
さらに翌日には家庭で瞬く間に感染が広がり、家族全員が仲良く陽性となり、そろって自宅療養となった。
かくしてウィズコロナでもゼロコロナでもないオールコロナ生活がはじまった。」
というのであります。
一家皆が罹患すると毎日の暮らしもたいへんだと思いますが、お寺の住職となると、いろいろな方に助けてもらわないといけなくなります。
たいへんなことだったろうと拝察します。
しかし、阿さんは、そのような体験を経て、
「病は善知識」と仰います。善知識とはよき友人ということです。
「病気になってはじめて健康の有難さや自分の弱さを知り、一人では生きられないことに気づかされるのだ。
そうであれば、病というのはむしろ人生を豊かにしてくれる賜物であり、厄介者ではなく友人として迎え入れるべきではないか」
というのであります。
さすがのご見識であります。
そして更に、
「コロナ禍で世界全土が病に侵されてしまったが、それを機に人と人とが支え合い、平和へ向かう道もあった。
ところが戦争という新たな災いが起こってしまった。
人類はこの病から一体何を学んだのだろう」
と書かれています。
その通りと考えさせられます。
阿さんからは、松居桃樓先生の本を頂戴しました。
『今を微笑む 松居桃樓の世界』という本です。
この本の宣伝に阿さんも関わっておられたというのです。
私は、この本のことを存じ上げず、実に有り難く思いました。
阿さんも松居桃樓先生の『天台小止観』の講話をとても高く評価されています。
松居先生のことを尊敬されていて、その言葉をよく御法話などでも引用されています。
松居先生には、『禅の源流をたずねて―天台小止観講話』という1979年に柏樹社から出版された本がございます。
柏樹社がなくなり、この本は『微笑む禅―生きる奥義をたずねて』という題で、 1998年に潮文社から出されています。
この本のもとになっているのは、昭和五十三年から五十四年にかけて月に一度、NHKラジオ宗教の時間で、松居先生が『天台小止観』を講話されたものです。
昭和五十三年、まだ中学二年生だった私は、このラジオの講話を聞いていたのでした。
松居先生の講話に感動したのでした。
『天台小止観』の最初には、
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という七仏通誡の偈が掲げられています。
これは
諸の悪を作すことなかれ
衆の善は奉って行なえ
自らその意を浄くせよ
これ諸仏の教えなり
というものです。
この言葉に松居先生は、大いに迷われました。
善とは何か、悪とは何か、これは難しい問題なのです。
松居先生は、この七仏通誡の偈を次のように意訳されました。
『ひとつぶでも まくまい
ほほえめなくなるタネは。
どんなに小さくても大事に育てよう
ほほえみの芽は。
この二つさえ絶間なく実行してゆくならば
人間が生れながらにもっている
いつでもどこでも なにものにも
ほほえむ心が輝きだす
人生で一番大切なことのすべてがこの言葉の中にふくまれている』
もう今から四十年以上前に、中学生の時に聞いたラジオの講話ですが、今も私の耳には、松居先生の優しく、暖かい口調で、
『ひとつぶでも まくまい
ほほえめなくなるタネは。
どんなに小さくても大事に育てよう
ほほえみの芽は。』
という声が耳に残っているのです。
声というのはウソがつけません。声にはその人が現れます。
いろんなご苦労をされて、嘘偽りなく真実を求めて生きてこられた方の穏やかで、そして内に秘めた力のあるお声でありました。
また止観という言葉について、
「止観とは何かというと、現代風に言えば、「止」とは感情を波だたせないことであり、「観」とは思考力を正しく働かせることになります」と優しく説かれたのも印象的なのです。
所謂伝統の仏教学者には出来ない解釈であります。
阿さんもいただいたお手紙の中で、
「松居師の天台小止観の解釈は目から何度も鱗が落ちるようで、本当に画期的な偉業だったと存じます」と書かれています。
いただいた『今を微笑む』の巻頭に、松居先生の短い詩が載せられています。
「いつもほほえむには」という題です。
いつもほほえむには
不幸になるのは
やさしいことだ。
やたらと怒ったり
なげけばいいんだ。
だが
幸福には
なかなかなれない。
いつもほほえむには
努力がいるから。
いつも微笑むには、どんなに小さくても微笑みの芽を育てようと常に努力しないといけないのであります。
本にある松居先生の微笑みの写真が素晴らしいのであります。
そしてまた、ウィズコロナならぬオールコロナと笑わせる阿さんの微笑みも思い浮かびました。
横田南嶺