恩を感じる者であれ
私も心よりご尊敬申し上げており、いつも勉強させてもらっています。
先日八月一日に公開された仏教講義 6「阿含経の教え2,その42」の最後の方で、恩について語っておられました。
そのご講義が印象に残りましたので、メモを取りました。
阿含経の相応部にある言葉を紹介してくださっていました。
「恩知らずな修行者がいる」という言葉です。
それに対して「恩を感じる者であれ」と説かれています。
そして更に大事なことは、「諸法無我が理解できれば、自然と恩の意味がわかる」と仰せになっていたところであります。
佐々木先生は、ご講義で、
「恩知らずな修行者がいる、これもたとえば、お釈迦さまからの教えを受け取っていながら、釈迦のことを全く尊敬しない、なんかそういう人の話もあるんです。
お経のなかに出てくるんです。
それから信者さん達からのお布施で、ご飯いただいて生きているのに、それに対して全く感謝せずに、まるで自分たちの方が一般信者よりも偉い人間であると、立派な種族なのだと、出家した僧侶というのは一般の俗人よりも偉いんだというような傲慢な気持ちで生きている、恩知らずな修行者もいると言っています。
それに対しては恩を感じる者であれといっています。
恩を感じる、まわりのおかげで私が今ここにいるということを感じるために、絶対に必要な考えが「諸法無我」です。
つまり世の中は私中心に動いているわけではない、私がこの世の中の真ん中にいるわけでもない、すべては縁につながって、因と縁、縁起で動いている世界の中のたまたまひとつの存在が私にすぎないのである。
私がここにいるのと全く同じ条件で、隣の人が隣にいる、向こうの人は向こうにいる、すべてはプレーンな全く上下、触れのない、揺れのない形で全てが動いていくだけなのだ。
そう考えたときにはじめて、今いる自分はなぜここにいるのか、それはまわりの様々な要素要因原因が集まって、ここに私がたまたま存在しているという思いに至りますから、その時はじめて本当の恩を感じる者ということになるわけなのです。」と語ってくださっていました。
とても分かりやすくて、素晴らしい解説だと感動したのであります。
恩の教えというのは、難しいものであります。
そもそも恩とは何かというと、いつものようにまず『広辞苑』で調べてみると、
「君主・親などの、めぐみ。いつくしみ。
人から受けてありがたく思う行為。」
という解説があります。
「恩に着る」というと、「恩を受けたのをありがたく思う」ことです。
「恩の主より情の主」という言葉もあって、これは「恩を受けた人よりも、情を受けた人の方を嬉しく思う。」
という意味であります。
「恩の腹は切らねど情の腹は切る」という言葉もあります。
「報恩のために死ぬ者は少ないが、義理人情のために死ぬ者は多い」という意味です。
なかなか深いところがあります。
ところが、
「恩に着せる」というようなことになると
「恩を施したことを相手にありがたく思わせるような言動をとる」ことになってしまいます。
こうなると考えものであります。
『広辞苑』には「感恩」という言葉もあり、
「恩に感ずること。恩を感謝すること」であります。
恩について、あれこれ考えていて、平楽寺書店の『仏教思想4 恩』という本には、巻頭に中村元先生の「恩」の思想という論文がございます。
ここには、
「「恩」は諸の仏教的諸概念のうちでも、東アジアの人々にとっては特になじみの深い、親しいものである。「因果」とか、「縁起」とか、「不殺生」とかいうような語は、そのサンスクリット(またはパーリ)語での原語がインドで早く成立していて、われわれはそれらの漢訳語を聞いたならば、直ちにその原語を言いあてることができる。
ところが「恩」は東アジアの漢字文化圏ではなじみの深い語であるけれども、それの原語が何かということは、はっきりしていない。」
と書かれています。
よく見慣れた「恩」という文字ですが、これをインドのサンスクリットやパーリ語では対応し難いのであります。
中村先生は、恩という漢字には、
「一、めぐみ。
二、いつくしみ。いつくしむ。
三、なさけ。おもひやり。
四、いたむ。
五、おんとする。 感謝する。
この字の成り立ちを見ると、「因」の字の下に「心」がしるされている。だから「心に因って」 「心を因として」という意義を含めているのであり、多分に心理的・精神的である。
やや通俗的な解釈としては、天地万有のもと(因)を正しく見つめて、その恵みに感謝する心であるとも言われている」と解説されています。
更に
「また「感恩」という語がある。これはヴェトナムでは一般に用いられる。
日本語で「ありがとうございます」、英語でThank you というときに、朝鮮語では「カムサ」(感謝)というが、ヴェトナム語では「カム・オン」(感恩)という」
という説明もあります。
また「恩とは人に恵みをほどこし、いつくしみ、 徳を及ぼすことであったから、〈他人を包容すること〉 すなわち四摂法が「四恩」 と呼ばれている。
すなわち、布施、愛語、利行、同事のことである。
ただしこの四つを「四恩」とよぶのは、西晋代(またはそれ以前)の翻訳に限られているようである。
後代には「四摂」または「四摂法」「四摂事」という訳語が用いられるようになった。」と書かれています。
後に四恩というと
『正法念処経』には、
「一つには母、二つには父、三つには如来、四つには説法の法師」
と説かれています。
ついでに『仏教辞典』をみると、
「四恩」とは、
「我々が平等に恩恵をうけているものに四つあることをいう。
心地観経(しんじかんぎょう)によれば、その四つとは、父母の恩・衆生(しゅじょう)の恩・国王の恩・三宝(さんぼう)の恩とである。
三宝とは、仏・法・僧をさすが、そのうち僧とは、教団を意味する。
『釈氏要覧』では、国王・父母・師友・檀越(だんおつ)の恩としており、その他、若干異なる四恩が説かれる場合もある。」
と説かれいてます。
とにかく恩について考えるとなかなか切りがないのです。
大事なことは、恩を学んでも決して恩着せがましくなってはなりません。
佐々木先生が仰せになっているように、
「今いる自分はなぜここにいるのか、それはまわりの様々な要素要因原因が集まって、ここに私がたまたま存在しているという思いに至りますから、その時はじめて本当の恩を感じる者ということになる」と、諸法無我が基盤となることを忘れてはならないのであります。
横田南嶺