宗教の功罪 – 其の三 –
八月三日の毎日新聞夕刊に、田中優子先生も「田中優子の江戸から見ると」という連載記事では、宗教について触れていました。
題が「とんだ霊宝」というものです。
その記事には、
「江戸時代の庶民は宗教を遊んだ。
両国広小路に「とんだ霊宝」という見せ物が出ると、多くの庶民が押しかけて「よくできてる!」と感心しては帰って行った。
これはご開帳の際に寺が見せる釈迦三尊や不動明王などを、乾鮭(からざけ)や大根、かんぴょうやするめを使って作り物に仕上げた見せ物で、いわばご開帳のパロディーである。
見せ物にしても問題にはならない。
彼らにとって宗教は権威でも畏怖(いふ)の対象でもなく、日常生活の中にある祭りみたいなものだからだ。」
と書かれています。
「宗教は権威でも畏怖(いふ)の対象でもなく、日常生活の中にある祭りみたいなもの」という感覚を江戸時代の日本人は持っていたというのです。
これは大事な感覚ではないかと思いました。
多くの宗教は、権威をもってしまい、一般の方からは畏怖の対象とされてしまいます。
その点、禅宗の達磨大師などは、権威や畏怖の対象からは対極にあります。
達磨大師は、禅の初祖であります。
厳しい修行をしてお釈迦様から二十八代目の法を嗣がれて、インドの国から中国にわたって教えを弘めた方であります。
そんな尊崇すべき祖師が、なんとだるま落としという、子どもの遊びになったり、起き上がり小法師という置物になったり、達磨ストーブという、ストーブにもなったり、実に日常生活の中に溶け込んでいます。
禅では、権威を持つことや、畏怖の対象となることをことさらに嫌うところがあります。
その点では、他の宗教とは異なっていると言えます。
他の宗教であれば、自分たちの開祖が、遊びに使われると抗議したりするところでしょう。
これほどまでに、日常の暮らしに溶け込んだお坊さんというのも稀だと思います。
さて田中先生は、そのコラム記事で、
「このように宗教を娯楽に転換してしまう江戸庶民から見ると、現代の新興宗教の信者が生活を壊すほど霊宝に莫大(ばくだい)な金を払うのは、「とんでもない霊宝」だろう。
現代人が江戸人と違うところは、「金さえ払えば何でも手に入る」と考えているところだ。
宗教団体はその思い込みを利用し、「もっと払えばもっと幸せになれるよ」とささやく。
見返りを求めて寄進する人は、何が自分にとっての幸せなのか、わからないから寄進する。そこが付け目だ。」
と手厳しく指摘されています。
かつてとあるカルト教団に入信していた方が、語っていた言葉を思い起こします。
もう二十数年前のことです。
私の古いノートに書き取っていたものです。
「現在の私は神を信じていないわけではない。
私たちに計り知ることのできない大きなエネルギーがあるのではないかという思いは、教団の教えを学ぶ以前と変わらない。
ただその教団で教えられた神の存在とは、全く違うものである。
献金すること、儀式をすることは私にとって無意味なものとなった。
お金や儀式形式が大切なのではなく、自分がこうして生かされているのを感謝することが大切なのだと思う」
という言葉であります。
宗教で問題になるのは、やはりお金のことであります。
そこに宗教の本質があるのではありません。
森信三先生が『森信三一日一語』のなかで、宗教のついてはっきり述べてくださっています。
「いかに痛苦な人生であろうとも、「生」を与えられたということほど大なる恩恵はこの地上にはない。
そしてこの点をハッキリと知らすのが、真の宗教というものであろう。」
どんなに苦しい中にいたとしても、このいのちをいただいたという大いなる恩恵に感謝することこそが、宗教の本質であります。
更に森先生は、
「宗教は人間が立派に生きるためのもの。
随って人間は神に仕えるべきであるが、宗教に仕えるべきではあるまい。
ひとつの宗教にゴリゴリになるより、人間としてまっとうに生きる事の方が、はるかに貴いことを知らねばなるまい。」
とも仰せになっています。
「ひとつの宗教にゴリゴリになるより、人間としてまっとうに生きる事の方が、はるかに貴い」という一語は胸に刻むべきであります。
往々にして宗教に熱心になり、また更に熱心になりすぎると人間としてまっとうに生きられていないことがあるものです。
そうして周囲と軋轢を生じたりします。
そして森先生の次の言葉も大切であります。
「真の宗教が教団に無いのは、真の哲学が大学に無いのと同様である。
これ人間は組織化せられて集団になると、それを維持せんがために、真の精神は遠のくが故である。」
実に手厳しい森先生の言葉です。
そして深い洞察でもあります。
教団になって組織化されると、今度はその維持のためにお金が必要になってくるのです。
そこでいろんな問題が生じてくるのであります。
宗教の功罪を知ることは大事であります。
宗教の原点、本質を見誤ってはならないものです。
横田南嶺